最上義光歴史館/館長裏日誌 令和8年5月30日付け

最上義光歴史館
館長裏日誌 令和8年5月30日付け
■ 呪術概説
 まずはじめに、呪術についていつものごとくGoogle AIさんにもきいてみると、「呪術とは、超自然的な力を用いて特定の願いや効果を引き出そうとする儀式や技術の総称です。歴史的・文化的に多種多様な方法が存在しますが、いかなる形であっても他者を傷つける行為や呪詛は法的なトラブルに発展する可能性があるため推奨されません。」とのことです。そうなんです。「孫末代まで呪ってやる」などと言おうものなら、孫末代からまで訴えられてしまうのです。「人を呪わば穴二つ」というものではありますが、「呪術という言葉には他者を害する目的のものだけでなく、本来は「祈り」や「願掛け」によって自身の運気を引き寄せたり、心願を成就させたりするためのポジティブな古来の秘儀も多く含まれています。」とのことです。つまり、「丑の刻参り」などの「呪詛」だけではなく、「おまじない」とか「ラッキーカラー」なども呪術の一種との説明がなされています。
 また、密教や陰陽道における秘術については、「日本の歴史においては、真言宗などの密教における祈祷(息災法や調伏法)や、陰陽道に基づく「式神」の使役、または社寺での「写経」や「読経」によって神仏の加護を得る方法などが体系化されてきました。これらは専門的な修行や知識を必要とする秘儀とされています。」とのことです。
 
 そして、「戦国時代の呪詛や呪術」についてAIさんは、つぎのように紹介してくれました。

1 敵を滅ぼす「調伏(ちょうぶく)」
 名を籠める:室町幕府の管領・細川政元は、政敵の氏名や罪状を書いた経文を大声で唱えて呪詛し、相手を恐れさせたことで知られています。これに対抗するため、呪詛を受けた武将が名前を変えるケースもありました。
 護摩祈祷:高野山や比叡山などの寺社に依頼し、護摩木を焚いて大掛かりな調伏を行いました。
2 占いや験担ぎ:軍配占いや辻占
 重要な合戦の前には、陰陽師や山伏、忍者などが占いや神おろしを行い、吉凶や進軍の日時を決定しました。
3 城や陣地の「結界・まじない」
 転用石: 石垣や建物の基礎に、五輪塔や仏像を逆さにして埋め込むことで、敵の呪い(呪詛)をはね返す結界として利用しました。
縄張りの風水: 城の設計(縄張)に風水や陰陽道を採り入れ、鬼門(北東)や裏鬼門(南西)を厳重に警戒しました。
4 自身を守る信仰:神仏の化身となる
 毘沙門天や摩利支天など特定の軍神を深く信仰し、自らが神仏の化身となって戦うことで、邪悪なものを祓おうとしました。

 また、「戦国時代の具体的な呪術」としては

〇 調伏(ちょうぶく)と呪術合戦
 敵の将兵を呪い殺すために、密教の最高級の秘法である「五壇の法」などが熾烈に行われました。室町幕府の管領・細川勝元が西軍を倒すために行ったほか、毛利元就が尼子氏との戦いで呪術合戦を展開した記録が残っています。
〇 九字護身法と忍術
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」の印を結び唱える九字は、密教の宇宙観がベースになっています。忍び(忍者)たちは、精神を統一し、敵の恐怖心を煽る心理的戦略(妖術の演出)として活用しました。
〇 軍配者と祈祷師
 ほとんどの大名には、戦の吉凶を占う「軍配者」や祈りを捧げる「祈祷師」が付き従い、合戦のタイミングから城の建築方針に至るまで超自然的な力を借りて決定していました。
 以上、AIによるまとめであります。

■ 調伏と調略の話
 戦国時代は武力だけでなく、神仏の力を借りた目に見えない「呪術合戦」が勝敗を左右すると信じられていました。勝利祈願の「加持祈祷」だけでなく、敵を呪い殺す「調伏(ちょうぶく)」や「妖術」などが実戦で深く信じられていたとも言います。
 まず、戦国時代の「調伏」とは、敵の悪意や怨敵を仏教や陰陽道の力で打ち砕く呪術のことです。武将たちは、寺社に祈祷を依頼したり、陣中で自ら呪術を行ったりしていました。護摩木を焚きあげたり、敵陣に向かって「調伏の矢(魔除けの矢)」を射込んだりしました。また、調伏という行為は、単に敵を呪い殺すだけでなく、自軍の士気を高め、心理的な優位性を保つための戦略的なものでもありました。
 また、式神を使って敵の呪詛を防ぐ「身固め」や、悪霊を退けるための歩行法(禹歩や反閇)が戦国武将たちの間で重要視されました。当時の軍師(軍配者)は陰陽五行を取り入れ、出陣の吉凶や方角、天候を占う際に式神の概念を活用しました。彼らは陣中で「式占(しきせん)」を行い、敵の動きを封じる呪法を唱えたとされています。
 一方、「調伏」と似た言葉に「調略」という言葉があります。戦国時代の「調略」とは、武力衝突を避けて敵を内側から崩す謀略のことです。情報工作や金銭、領土の約束で敵将を寝返らせること(内応)で、最小限の犠牲で城や領地を乗っ取るための極めて実戦的な戦略でした。戦国大名たちは無用な消耗を避けるため、正面から城を攻める前に必ずこの調略を駆使しました。その主な手法としては、敵の家臣を金品などで寝返りを促す内応工作、「あの武将が裏切るらしい」などの流言飛語、兵糧攻めなど敵を孤立させる戦法などです。
 なお、軍師については小和田哲男(静岡大学名誉教授)が著した記事(「歴史街道」2014年1月号)に、つぎのような説明がありました。
「実は作戦の立案は軍師の役割の1つにすぎません。むしろ、作戦参謀を務めた軍師は戦国時代中頃に登場し始めた人たちで、それまでの軍師というのは、占いや祈祷といった呪術的な仕事で武将に仕える存在でした。
 例えば、出陣に際して吉凶を占い、日時や方角などをアドバイスしたり、何か縁起の悪いことが起これば、御祓いをしたりといった具合で、「戦術」ではなく「占術」が元々の軍師の仕事です。これを担ったのは主に陰陽道に通じた僧などで、吉凶を占う際に軍配を用いたので彼らは「軍配者」と呼ばれました。
 そもそも軍師とは、江戸時代に軍記物などで描かれて生まれたもので、戦国時代には軍師という役職はありません。しかしあえてその定義をするならば、専門知識や智略をもって軍事や政略などを担い、主君に仕えたスタッフといえるでしょう。広い意味では参謀役の智将もこれに該当します。
 さらに戦国時代の中頃から、軍配者以外に作戦立案を担う参謀型の軍師が登場します。まだ将兵の数が数百や数千の範囲であれば軍配者のマインドコントロールが有効で、士気が戦いの勝敗を大きく左右しましたが、各地で有力な戦国大名が生まれ、大きな規模の戦いが行なわれるようになると、兵力の数とその運用がものを言うようになります。そのため、占術を行なう軍配者型の軍師よりも、陣立や戦術を練るような、一般的によく知られている参謀型の軍師が求められ、主流になっていきました。」
 戦国時代の軍師の大きな仕事の一つに、敵方との交渉がありました。戦いになれば犠牲が出ますし、出費も大きく、できれば、戦わずに丸く収めたいと考えるのは戦国大名にとって当然のことです。そこで、外交に長けた軍師が活躍することになりました。

■ 荼枳尼天(だきにてん)の話
 先に、武田信玄や上杉謙信が信仰していた「飯綱権現」を紹介しましたが、彼らを始め多くの戦国武将が信仰していた神仏に「荼枳尼天」がいます。あらゆる願いを即座に叶える強力な神通力を持つとされ、戦国時代は「怨敵退散」や「戦勝祈願」の軍神として深く信仰されました。元々は人間の死期を予知し、死者の心臓を食べる恐ろしいインドの夜叉ダーキニーでした。それが大日如来(大黒天)に調伏されて仏教の守護神となり、願いを叶えてくれる善神へと変化しました。
 日本では狐を操る神として「お稲荷さん」と習合し、城の守護神として城内に稲荷社を建立し、また、天守閣の最上階にはお稲荷さんが祀られていたりします。「荼枳尼天」の真言はいくつかありますが、お稲荷さん(稲荷大神)の真言である「オン キリカク ソワカ」も唱えられるようです。お供え物としては、白狐に乗っていることから、油揚げのほか、柑橘類を好むとされています。
 さて、この荼枳尼天で有名なのが愛知県にある「豊川稲荷」で、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康など、多くの戦国武将からも深く崇敬されてきました。稲荷とはいうものの実は曹洞宗の寺院で、正式名称は「妙厳寺」。本尊は千手観音菩薩で、鎮守として祀られているのが「豊川吒枳尼眞天」。稲穂を背負い白い狐に跨っている姿から「豊川稲荷」として親しまれています。なお、豊川稲荷には鳥居があり狐が祀られているのですが、やはり「寺院」とのことです。

■ 「桶狭間の戦い」の話
 「豊川稲荷」の荼枳尼天を深く信仰し、同寺を保護し、山門を寄進した戦国武将に、今川義元がいます。今川義元は「桶狭間の戦い」(1560年)で織田信長に討たれるのですが、信長も豊川稲荷の鎮守である「豊川吒枳尼眞天」に戦勝祈願や武運長久を求めて深く帰依してしました。ただし信長は「桶狭間の戦い」の直前に「熱田神宮」に参拝し戦勝を祈願しました。その際、神社の社殿から二羽の白鷺が飛び立ち織田軍を勝利へ導いたという伝説があり、境内にはその記念碑が残されています。熱田神宮の主祭神は熱田大神で、草薙神剣を御霊代とする天照大神ですが、「桶狭間の戦い」は実に、豊川稲荷と熱田神宮の戦いというより、二股をかけた織田信長の勝ちということのようです。
 さて、織田信長は自身を「第六天魔王」とも名乗っています。第六天魔王とは、仏教において、欲望の世界である「欲界」の最上部(他化自在天)に君臨する魔王のことで、悟りを開こうとする者を妨げるとされています。なぜにこのような魔王を名乗ったかというと、比叡山延暦寺の焼き討ちなどを非難してきた武田信玄が信長に、天台宗のトップである「天台座主沙門信玄」と署名した書状を送ってきたことに対し、信長は怒り、自分を「仏敵・魔王」になぞらえる形で「第六天魔王信長」と署名して返書を送ったことからとのことです。
 織田信長は、戦国時代の陰陽道や軍配者(易者)を軍略や権力基盤の強化に巧みに活用していました。合戦の時期や方位の吉凶を占う陰陽師的な役割を持つ軍配者を側近として抱えており、代表的な人物として「伊束法師(意足法師)」が知られています。
 しかしながらGoogleAIさんによると織田信長は、戦国時代の「呪術」や「占い」といった非合理な慣習を徹底的に排除した超・合理主義者として知られており、それでも彼は自らを「神」として演出する政治的パフォーマンスに長け、合理性と呪術を巧妙に使い分けた人物、とのことです。

■ 首実検の話
 「桶狭間の戦い」後、信長は長福寺(名古屋市緑区)で今川義元の首実検をしました。その後、義元の首は清須の須ヶ口に晒されていましたが、それでも抵抗を続ける今川軍の鳴海城の岡部元信に対し、信長は開城を求めていました。元信は「太守様の首と引き換えに城を明け渡そう」と返し、信長はその忠義に深く感じ入り、首を棺に丁重に納めさせ、わざわざ同朋にもたせて駿府に送り届けました。また信長は、熱田に通じる街道の脇、清須城の南入口に義元の供養塔である「今川塚」を建て、千部経を読経させました(現在は清須市の正覚寺に)。その他義元に関わる塚は、豊川市の大聖寺に胴塚が、西尾市の東向寺に首塚があるそうです。また、義元が所持していた名刀「義元左文字(宗三左文字)」は信長の手に渡り、愛刀となりました。
 しかし、負けるはずのない戦いに敗れた今川義元の遺恨は強烈なものだったらしく、義元の軍で多くの戦死者が出た愛知県周辺の地域では、かつて怪異や鬼哭(亡霊が泣き叫ぶ現象)が多発したという伝承があります。これを鎮めるため明治21年、愛知県豊明市に一草庵が建てられ、怪異現象はなくなったとのことです。
 こうした首実検にまつわる怪異話は、前出の伊藤清郎先生の論文にもあるので、ここに引用します。
 「「羽陽軍記」の「首実検之事」には、長谷堂合戦後における首実験の様子が描かれている。上山を守備していた里見兄弟は、攻めてきた上杉勢の上泉主水正の首を取ったのであるが、「今朝まで主水正の首がしおれず、黒目もみえず、口を開き時々目を開き、動くように見える」ので最上義光に報告したところ、義光は「実験次第様々有り、大将の首ヲハ対面と云、盃杯指事あり、其外ヲ実験と云トモ、天眼と云ハ眼玉天ヲみる様なり、眼玉左をミルハ左眼、此ニツハ味方不吉也、眼玉地ヲ見るハ地眼、右ヲ見るハ右眼、是ハ味方吉事也、眼中二付ハ、和平之首と云、舌を出し口をあきたるヲ遺恨の首と云、煮させ見るへし」といつたので、里見兄弟は大釜で煮てみたところ、首はしおれることもなく、時々目を開き動くように見えたので、雑人たちは皆立ち騒ぎ逃げてしまった。
 そこで義光は、修験の行蔵院に命じて檀上に首を据え、七日間護摩を修法させたところ、七日目ににっこり笑い、目をふさぎしおれた。それで「柴の観音堂」の下に深く埋めたと、記されている。
 大将の首とそれ以外の首、眼の方向によって天眼・地眼・左眼・右眼・眼中、和平の首・遺恨の首等とよばれ、区別されていたことが知られる。特に遺恨の首の場合は、大釜で煮ることもなされた。それでも死者の遺恨が治まらないようなときには、修験者による柴燈護摩が焚かれたのである。首実験の作法については、笹間良彦氏の詳細な考察があるが、怨恨にたちうちできるのは、呪術しかなかったのである。怨霊に対する中世人のおびえが、近世初頭の人々にも続いていることがわかる。」
 そうなのか、どうもやばい首はひとまず大釜で煮て、それでもしおれない場合は護摩をたくのか。そうそう役に立つ知識でもなさそうですが、義光の時代には必須のことであったようです。

■ 起請文と最上義光の話
 さて、最上義光は呪術の他、立願(りゅうがん)や起請文(きしょうもん)により神仏に誓いや祈りをたてており、その文書も残されています。ちなみに立願とは、神仏に対して、願い事の成就を祈り誓うことで、特定の目的を達成するためのものです(例:病気平癒、戦勝祈願など)。一方、起請文とは、神仏に対して自分の言葉や約束に偽りがないことを誓う文書(誓約書)で、破ると神仏の罰(ばち)を受けるそうです。前出の伊藤清郎先生の論文には、「もし約束を破ると神仏の冥罰・仏罰を毛穴毎に蒙り、業病に罹患し(特に皮膚病)、属する共同体や生活空間から排除され、周縁にある宿などに追いやられて長吏の下で物乞いなどして生活をせざるを得なくなり、遠からず死を向かえることになる。」とまであります。また、「起請文の文書様式は前書と神文からなり、前書には約束の内容が記され、神文には誓いを立てる神仏の名称が記されている。」とのことです。
 また、「立願からは、最上領国内でも有力寺院である立石寺や慈恩寺、それに出羽三山の一つ湯殿権現への強い信仰がみられる。湯殿山との関係でいえば、慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いの際に、誓願時(山形市)の上人が徳川家康の戦勝を祈って湯殿山に48日山籠を行い、さらに八日町の町人 108人が最上軍の勝利を祈って湯殿山へ参拝している。そこで最上義光は勝利の後、八日町に三山参詣宿の特権を与えたので、その後八日町は大いに繁盛し」とあります。
 一方、義光の起請文においては「「密教的仏神」→「日本全国」→「出羽国」→「最上郡」→「殊に天満自在天神」という大系が、義光の頭の中にできていたことが理解されよう。それに触穢思想が染みこんでいる。「月山・葉山・羽黒それに両所の宮」が神文に登場しているのは、在地的・山形的である。」とのことです。
 比較対象として伊達政宗の起請文は「「梵天・帝釈・四大天王・堅牢地神」「日本国大小神祇」「熊野三所権現・春日大明神・愛宕山・八幡大菩薩・摩利支尊天」が見えても、出羽固有の神の名前は出てこない。祖父晴宗の代には、天文の乱後、米沢に拠点を移し、輝宗・政宗と三代にわたって出羽国に居住しながらも、相変わらず伊達家・政宗の帰属意識はいまだに陸奧側にあることが読みとれる。」と指摘しています。つまりは、信じる神仏にはローカル色も現われてくるというわけです。
 論文では「起請文は極めて中世的な文書様式であり、十二世紀頃に成立して十六世紀末・十七世紀初頭には歴史的終焉を向える。それ以降はあっても形骸化していくのである。」としながらも、「起請文が、形骸化の兆候を示しながらも、戦国最末期から近世初頭(豊臣期・江戸初期)においてもまだ機能をしている様相が見てとれよう。さらに最上義光の精神構造の中には、顕密大系に基づいた神々の体系が存在していることも理解されよう。」としています。

■ G2等に対抗する呪術の話
 さてさて、今回なぜに呪術の話になったかというと、G2体制となれば日本のプレゼンスは危うくなるという話から始まったわけですが。
 そこでまずは、日本古来の呪術について簡単に述べますと、仏の力を用いる「調伏」、鬼神怨霊や生霊などの「物の怪」、陰陽師が使役する「式神」、「蠱毒」を使うものなどがあります。アニメ好きの外国の方の中には、きっと日本には式神を召喚できる人がいると、半ば本気で思いこんでいる人がいるかもしれませんが、式神自体、目に見えるものでないとされており、なにがどうなっているのかはみえません。まあ、「いるかもしれないし、いないかもしれないし」という思わせぶりで威嚇するのも手かと。
 一方、中国の呪術の代表的なものとしては、護符や呪文を用いる「符呪術」、毒虫を使った「蠱毒(こどく)」などがあり、こうした呪術や、まじないによって他人に害を加えることを「巫蠱(ふこ)」というそうです。また、星の力と歩行術を組み合わせた「禹歩(うほ)」やと中国の道教における大規模な祈祷・祭祀儀礼「齋醮(さいしょう)」もあります。そのほとんどは、日本の陰陽道や修験道などにとりいれられてもいます。
 少々具体的に説明すると、「符呪術」は神仏の文字や図形を特殊な紙に朱墨で書き込んだ「符(お札)」と、言葉の力である「呪(神呪)」を組み合わせた術です。呪文の最後には通常、「急々如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)」とあり、これは「律令のごとく速やかに」という意味で、メールでいう「ASAP」とか「なる早」とかと同じようなものです。
また、「蠱毒」とは壺の中に複数の毒虫(ムカデや蛇など)を入れ、共食いさせて最後に生き残った最強の毒を抽出するもので、他者を呪い殺したり、富を奪ったりする黒魔術として恐れられました。
 「禹歩」は、北斗七星の配列に合わせて歩くと、大地の呪力を身にまとったり、邪気を払ったりする歩行術。日本では「反閇(へんばい)」という修験道や陰陽道の歩き方として受け継がれているそうです。このように中国の呪術は、いずれも日本の先輩格にあたりかなり手ごわいと思われるものですが、陰陽道の式神とかでなんとか対抗を。
 以上の呪術は、AIさんに教えてもらったものですが、これにAIさんは、どさくさに紛れて「房中術」も呪術として拾ってくれました。「男女の交合を通じて陰陽の気を調和させ、健康維持や不老長生(仙人になること)を目指す術。」とのことですが、ほっとくとこのままインド方面の話まで飛びそうなので、まあ、これも呪術なのかと。
 続いて、アメリカ先住民の呪術ですが、自然界のあらゆるものに精霊や霊力が宿るという「アニミズム」に基づいています。彼らは呪術的な儀礼を通じて、自然との調和を保ち、病の治療や豊猟・豊作を祈願してきました。なので、相手を呪うようなものではなく、シャーマンによる癒し(メディスンマン)や薬草の煙などによる浄化(スマッジング)、タバコや薬草をパイプに詰めて煙とともに祈りを天へ届ける「聖なるパイプ」などで、いずれも攻撃的なものではありません。「新自由主義」の方がよほど攻撃的か。
 そして、ロシアの場合はというと、呪術というか魔術でして、スラヴの民間伝承に根差す自然崇拝・呪術と、正教会の神秘主義が融合したものです。ロシア魔術を構成する主な要素としては、バーバ・ヤーガ(Baba Yaga)という薬草や呪術に長け善悪両面の顔を持つ魔女と、ヴェダ(Veda)という自然の力(薬草や水、四大元素)を利用した民間信仰や治療術とのことです。ただ、これらの呪術は現在でも広く庶民に信じられているとのことで、そうか魔女が相手か、しかも現役、これは難敵だなぁ。
 ところで、かの戦争の末期には、本土決戦にむけて竹鎗の訓練がなされていたそうですが、もしかして小型ドローンとかは竹鎗で突くことができるのでは。呪術合戦でダメなとき、最終手段は竹鎗かと。

2023/05/30 15:21 (C) 最上義光歴史館
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