最上義光歴史館/館長裏日誌 令和7年9月7日付け

最上義光歴史館
館長裏日誌 令和7年9月7日付け
■ 江戸の飢饉の話
 江戸の三大飢饉として、1732年(享保17年)の「享保の大飢饉」、1782年〜1788年(天明2年〜7年)の「天明の大飢饉」、そして1833年〜1839年(天保4年〜9年)の「天保の大飢饉」があります。蔦屋重三郎(1750〜1797)が存命していた時に起きた「天明の大飢饉」は、天明3年の浅間山大噴火とその後続く悪天候により7年間も大凶作が続いたもので、特に東北地方の被害は壊滅的でした。弘前藩10万人、南部藩5万人、全国で餓死・疫病死とりまぜて30万とも50万とも言われる日本史上最大の飢饉でした。それまで米価は下がり続けていていたのですが、天明の大飢饉により急騰、江戸、大坂、京都、広島など全国的に打ち壊しが起こりました。これらの打ち壊しは幕府の政治を混乱させ、後の「寛政の改革」につながる原因となりました。
 人口の3割以上が餓死したとも言われる八戸領では、この天明の大飢饉の様子を記録した「天明卯辰簗(てんめいうたてやな)」に次のような記述があるそうです。
 天明4年にある宿屋に1人の女性が訪ねてきて、次のように言いました。「こちらの家で爺さんが亡くなられたと聞いてやってまいりました。どうか片身とも片股なりともお貸しくださいませんでしょうか?うちの爺さんもせいぜいあと2〜3日かと思われますので、その節にはすぐにお返しに上がりますので」
 なんか律儀な話でもありますが、杉田玄白が書いた「後見草(のみちぐさ)」には、天明の飢饉では、犬の肉と偽って人肉が売られた、とも記されています。ちなみにこの文書で杉田玄白は、領内から1人の餓死者も出さぬよう指導力を発揮した米沢藩主上杉治憲(鷹山)を「賢君」と称えています。天明の飢饉は鷹山が藩主になって15年後のことですが、その間、飢饉への備えとして藩内各所に備蓄用の米蔵を建造し備蓄を増やしていました。また、米以外の栽培促進と殖産興業を図り、藍の栽培、焼物、錦鯉の養殖、植林などにより農家と藩の収入増を図りました。
 しかしこれは稀有な例でして、諸藩は、飢饉の復興と財政難解消のため殖産政策により商品作物の生産等を奨励し、結果的には領民の負担が増えさらなる被害を生んだともいいます。米よりも金になる商品作物として「天下三草(てんかさんそう=紅花、藍、麻)」がありますが、これを作付けしため米が不足していた、との指摘もあります。紅花は山形の特産品です。また、東北地方の諸藩は、財政を維持するために大坂や江戸に米をどんどん廻していました。その結果、備蓄米がほとんどなくなってしまい、飢饉が起きた時に対応ができなくなってしまったともいいます。東北地方で多くの餓死者を出したのは、天災だけが理由ではなかったようです。

■ 昭和の飢饉の話
 時代は昭和の話になりますが、日本各地で自然災害がおこった1934年(昭和9年)に、農作物も大きな被害を受けました。九州・四国の干害、北陸・山陰の冷雪害、関西・中国の室戸台風による風水害と続き、冷害に見舞われた東北の被害は甚大でした。飢饉により、欠食児童が急増し、間引きや母子心中が相次いだそうです。とくに大きな問題となったのは娘の身売りでした。東北六県で、芸・娼妓、女給、女子工員などとして人身売買された娘の数は、昭和9年10月までの一年間で5万人余にのぼったそうです。以前、この館長日誌で紹介した「賣られる最上娘」でも触れた話です。
 1929年におきた世界恐慌によりアメリカ国民が窮乏し、生糸の対米輸出が激減。生糸価格の暴落から他の農産物も次々と価格が崩落しました。さらに、1930年(昭和5年)の豊作による米価下落により(「豊作飢饉」)、農業恐慌は本格化しました。以降、農民は稗や粟などの雑穀、楢や栃の実を常食とせざるを得ない生活を強いられたとのことです。昭和9年の凶作は、それら雑穀や木の実はおろか、草の根、木の皮、藁など口に入るものはすべて食糧にして飢えをしのがねばならなかったそうです。そして当時の記事を借りれば「床のない家、床があつても畳のない家々から、娘がポツリポツリ芸者に、娼妓に、ある日は酌婦に売られて姿を消してゆく」という「人身売買」がなされていきます。

■ 戦争になった話
 1929年の大恐慌を背景に1930年代は欧米列強が帝国主義のもと、アジアやアフリカで植民地政策を進めました。不況を乗り越えるため植民地を拡大し、他国を排除して本国と植民地を一体とした経済圏を作り、その中だけで貿易を行うこととしたのです。
 日本陸軍は日清戦争後、およそ5,800人の支那駐屯軍を置いており、1931年の満州事変を経て満州の支配権を拡大、1932年に満州国を建国しました。資源確保と植民地拡大のため中国への進出を続ける一方、国際連盟がリットン調査団の報告をもとに満州国の不承認と日本の撤兵を求める勧告したことに反発し1933年に国際連盟を脱退。1937年の盧溝橋事件をきっかけに中国との全面戦争に突入しました。
 1936年には二・二六事件が起きます。陸軍の青年将校に率いられた1,500人ほどの部隊が、天皇の側近や大臣を殺害し、首相官邸などを占拠したものです。部隊の中には、貧しい農家から徴兵された兵士が大勢いました。
 当時の農村では貧困が深刻化し、女性が身売りするような事態でした。国外に目を向ければ、中国のみならずイギリスなどとも対立が深まっていました。こうした危機をよそに、国民を犠牲にして私利私欲に走り、天皇と国民のつながりを阻害している天皇の側近、政治家、財閥などを取り除こうとしたのです。天皇を太陽に、国民を作物になぞらえ、太陽の光を遮る側近や財閥を取り除かなければいけないと、部隊を率いたひとり、安藤輝三大尉は部下に語ったそうです。
 二・二六事件は、武力を背景にした軍隊勢力によるものでしたが、それを抑え込んだのもまた軍隊だったことから、軍部の発言力は増大してしまいました。
 関東軍は二・二六事件後、直ちに満洲移民の大規模送出計画の作成に取りかかり、1936年5月11日に満洲農業移民百万戸移住計画を作成。同じ年8月25日には、ほとんどそのまま国策として「二十カ年百万戸送出計画」の骨子としました。これは農林省が進めていた疲弊農村の「経済更生運動」と連動し、1938年から、「分村移民」として結実。各町村別に、「黒字農家」=「適正規模農家」の平均耕地面積で町村の耕地総面積を割って「適正農家」数を算出し、この戸数を超える農家を「過剰農家」として満洲に送り出しました。一方軍部は、満洲国の人口の一割を日本人で占めれば、満洲国が「大和民族」が指導的中核とする日本的秩序を打ち立てることができると考えていたと言います。表向きは飢饉対策ですが、実質的には植民地政策に駆り出されたわけです。
 1941年(昭和16年)の真珠湾攻撃を発端としたアジア・太平洋戦争の勃発以降、国内農業者の大量兵員化と軍需工場労働者化のために、満洲移民として確保すべき人員が極度に不足し、日本人移民送出数は急減しました。1945年(昭和20年)の敗戦を迎える前に日本人移民事業は崩壊しました。
 1945年8月9日にはソ連軍が満洲侵攻、関東軍は移民達を置き去りにして逃走したと言います。この時点における在満洲国移民団員の数は約22万人でしたが、そのうち現地死亡4万6,000人、行方不明者3万6,000人、ソ連抑留者3万4,000人であり、どうにか日本にたどり着いた人は、22万人の半数に過ぎませんでした。
 先月の日本経済新聞には幼少期に満州から引き揚げてきた、漫画家の千葉哲也さんと映画監督の山田洋次さんの証言が掲載されていました。朝鮮から引き揚げてきた作家の五木寛之さんの証言もありました。戦後80年となる中、貴重な生の声です。

■ 米米CLUBの話
 米がらみのニュースとなるとそのBGMで「KOME KOME WAR」が使われていることがあります。バレンタインデー関係のニュースになると「チョコレイト・ディスコ」が流れてくるのと似たようなことなのですが、先月、テレビ番組に、その米米CLUBとPerfumeが一緒に出演していて、米米CLUBは結成40周年、Perfumeは結成20周年(演歌歌手なみ!!)とのことでした。
 番組では結成40周年ということで40曲メドレーをやりますなどと言ってましたが、実際はコンサートの始めにうたう曲と最後に歌う曲の2曲メドレーではありました。米米CLUBのメンバーは、還暦を優に過ぎていて、石井さん(65)も歌い終わった後、心なしか肩で息をしている感じでした。踊り子さんのシュークリームシュも還暦を超えていらっしゃるはずですが、淡々と無理せず踊っていたのが好対照でした。そうそう、ジェームス小野田さんは「べらぼう」で狂歌師の元木網(もとのもくあみ)を演じられていて、ご同慶の至りではあります。
 「米米CLUB」という名は、当時人気のバンド「トム・トム・クラブ」を小野田さんが「コメコメクラブ」と言い間違えたことからという説と、某情報誌の「バンドメンバー募集」欄に目立つよう「※※クラブ」としたという説、新聞のテレビ欄で「※※クラブ」を「米米クラブ」と誤表記されてしまったからという説、など現役なのになぜか諸説あるのですが、いずれにしても直接的には米とは関係ないようです。
 それでも、そのファーストアルバムは「SHARI-SHARITHM(シャリシャリズム)」というタイトルで米とシャリをかけていて、解散前のアルバム「PUSHED RICE(プッシュト ライス)」は日本語に訳すと「押し米」つまり「おしまい」となっています。「KOME KOME WAR」が収録されているアルバム「GO FUNK(ゴー・ファンク)」は「ご飯食う」にかけているものです。
 しかし最近は、本当に米にも関係しているようで、オリジナル米の「米米米 KOME KOME MAI」というコシヒカリ5kgを5,000個限定で販売したり、この5月も茨城県行方市宇崎の体験型農業テーマパーク「らぽっぽ なめがたファーマーズヴィレッジ」で、バンドメンバーと県内外から参加した親子ら約90人が田植えなどで交流を深めたとのことです。
 個人的には一度だけ米米CLUBのコンサートに行ったことがあり、その会場は仙台市体育館でガッチャマンの主題歌とかうたっていましたが、舞台がセンターステージで、それが廻って上下するというべらぼうに金のかかったものでした。いつもステージに金を掛け過ぎて、満席にもかかわらず赤字だったらしいです。ついでに言うならば、彼らのライブのキモは、そのアンコールにありまして、どうかしているような力の入ったパロディソングをアンコールのためにいろいろとコンサート毎に用意していました。
 「米米CLUB大全集」という映像集があり、LD(レーザーディスク)で12枚ほど出されていますが、それにもアンコールの一部が収録されています。当時、なけなしの稼ぎからコツコツとこれらのLDを集めてはいましたが、しばらくしてDVDがセット販売されたので、それも購入しました。そろそろ終活を考えなければならない世代にさしかかっているにもかかわらず、こういうものばかりを買ってしまいます。今時、中古のLDであればほとんどが1,000円以下で入手できるので、ちょっと気になるLDがあれば買ってしまったり、そうそうPerfumeの中古DVDなども結構お安かったりします。
 それにしても、こういうもの特に中古のLDは買っただけでほとんど見たりはしないわけで、絵にかいたような無駄使いと言いますか、こんなことが家人にバレれば、それらの粛清を求められること必至なので、とにかく家の奥に隠しています。

■ ブランド米の話
 ここで少々、ブランド米の話でも。
 山形の隣接県には、新潟の「コシヒカリ」、宮城の「ササニシキ」、秋田の「あきたこまち」と強力ブランド米が肩を並べ、例えるなら上杉、伊達、佐竹に囲まれているような状況が続いているわけです。かつて山形では、ササニシキ系統の「キヨニシキ」という米が主流でしたが、宮城では1981年に「ひとめぼれ」がデビューし、たちまちその勢力を拡大しました。「あきたこまち」は1984年に開発されたものです。
 ここで山形でもなんとかメジャーなブランド米を、ということで、1993年に開発されたのが、「はえぬき」と「どまんなか」です。「はえぬき」が平野部での栽培を、「どまんなか」は中山間地域の主力品種に位置づけられました。ただ「はえぬき」の方が作りやすく良食味であることから、「どまんなか」の作付けは激減しています。
 それでもこの「どまんなか」は、冷めても固くならず美味しさを保ち、お弁当には最適で、山形新幹線開業に合わせて開発されたあの駅弁「牛肉どまんなか」は、使われているこの米の名に由来するものです。「どまんなか」とは、庄内平野のどまんなかにある山形県農業試験場庄内支場で生まれたことから名づけられました。一方、「はえぬき」の知名度は県外ではいまひとつかもしれませんが、セブンイレブンのおにぎりに使用されています。いずれも物はいいのですが、その「どまんなか」と「はえぬき」というネーミングは、食材としてはあまりに攻めすぎたのかもしれません。発表時には異論が続出していました。
 そして1998年に「つや姫」がデビュー。酒米で有名な「亀の尾」をルーツとし、耐倒伏性を持ち、栽培しやすい品種で、炊飯米の光沢や外観、味に優れ、なによりも冷めてもおいしいため、特に高級な弁当にはよく使われています。実は炊き立てであれば、およその米は区別なく美味しいのですが、冷めるとその違いがよくわかります。ちなみに鶴岡駅のコンビニで売っているおにぎりは全て「つや姫」です。2018年には「雪若丸」もデビュー。しっかりとした粒感と適度な粘りがあり、寿司、丼、カレーに好適米というものです。
 さて、米の収量、つまりは「米どころ」のランキングですが、やはり新潟が1位。コシヒカリ、特に魚沼産となればもう他のブランド米の倍ぐらいの値段で売られていることがあります。新潟の温泉旅館の売店では土産物として、まずはこの魚沼産コシヒカリがどぉーんと置いてあったりします。
 また、東京などのデパ地下でよく見かけるのが、2017年に一般発売が開始された「新之助」でして、その血筋は祖父母が「どまんなか」と「どんとこい」ということで、これだけでもかなり足腰の強い(!?)品種であることが伺えます。かつて台湾のデパ地下で販売されている農産物の視察をしたことがあり、台北、台中、台南のデパ地下を巡ったところ、やはり「新之助」ばかりがどぉーんと置かれていました。
 米どころ第2位は、実は北海道です。かつて「鳥またぎ」とまで揶揄された食味の北海道米でしたが、「きらら397」の登場以降、一新されました。ちなみに吉野家の規格米は「きらら397」を中心にしたブレンド米とのこと。現在の北海道産米の銘柄は豊富でしかもどれも本当においしい。しかもコスパもいいのです。千歳空港に行くと、そこではカニやメロンをはじめとした生鮮食品が、ここが空港であることを忘れるくらい並んでいるのですが、米も「ゆめぴりか」や「ななつぼし」など5、6種類の銘柄がおしゃれなパッケージで売られていて、詰め合わせならいろいろと食べ比べもできます。生鮮食品をお土産にできない場合はぜひおすすめします。
 3位は秋田。2022年に本格デビューした秋田県の新品種「サキホコレ」は、「コシヒカリを超える極良食味品種」をコンセプトに「あきたこまち」誕生から37年ぶりに開発された品種とのこと。冷めてもおいしく、カレーでもチャーハンでもいけるという万能ぶりです。ちなみに「あきたこまち」は牛丼チェーンの松屋でも使用されています。
 ここまではここ数年、不動の順位でして、それに続くのが山形、宮城、福島の3県で、ほぼ同じ収量です。他に東北では、青森の「青天の霹靂」や岩手の「銀河のしずく」と「金色の風」などがキャッチ―な銘柄で、とりわけ「岩手県産あきたこまち」というのはなかなか悩ましいかなとも思います。

■ 白米の食べ方の話
 銘柄米と言えば学生の時、「実家から送られたコシヒカリをオカズにササニシキを食べている。」と言っていた同級生がいましたが、まあ、これはネタかと。一方で、米を研ぐということがわからず、米を洗えばいいということで洗剤で洗ったという後輩がいました。水を入れずに米だけを炊飯器にいれて炊いた、という話もよくある話で、インターネットもないバブル前夜の話でして、いずれも実話です。一方、現代では、ミネラルウォーターで研いで、氷を入れて炊く、これがおいしい炊き方だ、などと当時の人に言ったら、冗談かと思われるでしょう。もっとも、「そんなことせんでも、研いだらザルにあげ、炊けたらおひつに移せば、十分においしいんです。ここでね、大事なのはおこげなんですよ。」などと、土井善晴先生とかには言われそうですが。
 さて、江戸時代には白米を5合食べ、その他のものは漬物程度という話でありますが、私が子供の頃、親戚のおじさんがご飯に醤油をかけて食べているのをみて、他の親戚が引いていたのを覚えています。というか、なぜそれが引くような行為なのか当時はわからなかったのですが、子どもの頃は自分も時々やったりしていたわけで、社会に出てからなんとなく引く理由がわかってくるのですが。ちなみに日本にいらしている欧米の方々も結構な量の醤油をかけてライスを召しあがっていまして、欧米でライスは野菜扱いとのことで、なにかソースなどが必要と思われているらしく、醤油をドバドバとご飯に。なんとなれば、牛丼に醤油をかけて食べていらしゃる方もいます。つゆだくというオーダーはやはり難しいわけで。
 しかし、もし異国の地で、クスクスとかキャッサバとかを食ってみろと言われた場合、まずは塩・胡椒とか、あるいはケチャップやマヨネーズをドバドバとかけるかもしれません。醤油があれば醤油をかけて食べるかも。恐らくバターなどで食すのが正解のような気もするのですが、クスクスとかキャッサバは単品たけでは食べないようでもあり、正直よくわかりません。
 ここで思い出したのですが、昭和の海外旅行の裏技として、とりあえず醤油をもっていくというものがありました。梅干しもあればなお安心、とか。正直、初めての国際線の機内食で、塩と胡椒しかなかったことに戸惑いました。日本のお弁当のように醤油やソースはないのかと。それでも最近は、日常の食事でも塩・胡椒で味付けは間に合うようになり、あまり醤油は使わなくなりました、年齢のせいでしょうか。それでもさすがに塩・胡椒でご飯を食べることはありません。ゴマ塩だったら喜んでいけますが。食味というか食文化には中々に微妙なところがあります。

■ 山形新幹線の話
 先日(9月4日)、山形新幹線とクマが衝突しましたが、とにかく今年は山形新幹線はトラブル続きで、6月17日に新型車両「E8系」が相次いで故障し、1カ月以上にわたる大規模運休となりました。その影響で県内の宿泊予約3万5000人減少し、4億円余りの損失ということが県の調べでわかりました。その間、福島駅での乗り換えとなったのですが、これがもうボヤっとしていると座席がなくなる場合があり、福島駅ホームは空席を目がけ駆け足で移動せざるを得ませんでした。
 山形新幹線が運休したときには迂廻路として、山形〜仙台を結ぶ仙山線という鉄路の利用もあるのですが、これもクマが衝突(8月11日)しています。「山形新幹線が使えなければ、山形空港を使えばいい」と言われるかもしれませんが、これは「パンがなければケーキを食べればいい」と同じようなことでありまして、しかも山形空港にもクマが侵入(6月26日)したりしています。なかなか難儀なことではあります。
 あとはバスということになるのでしょうか、今のところ山形ではバスとクマは衝突していません(福島では衝突しています)。山形〜仙台間のバスは10分間隔で運行される時間帯もあり、仙山線より早くも到着します。これが山形〜福島間となると、東京行の夜行バスで途中下車するしかなく、その時刻も深夜1時頃になるという、なんともワイルドなものとなります。
 山形市は仙台市と隣接しているので、ここはアクセスが確保されているのですが、その他の隣県に行くとなると、秋田行の電車も新潟行のバスもあるのですが、これかまた東京に行くより大変でして。
 そういえば、あの東日本大震災のときは仙台駅も被災し、当然、東北新幹線は運休となり、長距離バスも道路状況がわからず運休となり、震災時にたまたま山形にいた東京方面の方々はそのまま山形に留まるしかありませんでした。
 県外への公共交通機関は2日目も不通で、その日は私もたまたま山形駅に近い避難所の運営にあたっていたのですが、その日はそのままそこに泊まり込みでして、とは言え、夜間はただただテレビを見て情報をとるくらいしかやれることはなく、時の総理大臣が自らわざわざ「福島原発で放射能が漏れているという噂は事実ではない」と不自然な発表をしている映像などを見ていたわけですが、夜明けに鶴岡行き(日本海方面)のバスが出るとの情報が流れたので、それを掲示板となっているホワイトボードに書き写しました。すると、避難所に滞在していた東京方面の方々が次々と、そのバス乗り場に向かっていったのです。
 何が不思議と言っても、地元感覚では山形市から鶴岡市を経由して東京に向かうというルートは発想にないわけでして、それでも庄内(日本海側)の人からすれば東京へは上越新幹線を使っているわけで不思議でもなんでもないのですが。とにかくその日から数日間は、鶴岡行きのバス乗り場には行列ができていたとのことです。非常時の中、バスの機動性と有難さを思うばかりでした。
 そうそう、仙台空港も被災したため、山形空港がその代替となりました。こちらではしばらく、自衛隊機も含めあり得ないほどの飛行機が離着陸していました。とにかく迂廻路とか代替機関というのは大事です。

2022/09/07 17:15 (C) 最上義光歴史館
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