最上義光歴史館/館長裏日誌 令和7年6月30日付け

最上義光歴史館
館長裏日誌 令和7年6月30日付け

↑担当学芸員(山寺芭蕉記念館所属)による渾身のチラシです。


〇 髭切と膝丸と鬼切と鬼丸の話
 「平家物語」の「剣巻」には、「髭切」と「膝丸」の話がでてきます。「髭切」と「膝丸」は源満仲(=源頼光の父)が筑前国三笠郡出山に住む唐国の鉄細工に揃いで作らせた二尺七寸の太刀で、満仲が有罪の者を切らせたところ、髭まで切ったことから「髭切」と名付け、もう一振りは、膝まで切ったことから「膝丸」と名付けたとあります。
 「髭切」で鬼を斬ったとする話としては、その鬼とは、余りに嫉妬深い公卿の娘が鬼になりたいとして貴船神社の詣でて成り果てた姿である。源頼光が渡辺綱に「髭切」を持たせ使いに出し、綱が一条堀川の戻橋を渡った時、女に声を掛けられ、夜なので送ってほしいと頼まれたので、女を馬に乗せて連れていくと、恐ろしげな鬼となり、綱を掴み飛ぼうとしたが、綱は少しも騒がず「鬚切」で鬼の手をふつと切った、とあります。その切り落とした場所が北野天満宮の上空であり、鬼の手を切り落した後、「髭切」は「鬼丸」と名を改められたとあります。ここで留意したいのは、「鬼丸」とあるのは「太平記」にある北条四郎時政の「鬼丸」と混同しがちですが別物ということです。「鬼丸(髭切)」は後に、「獅子ノ子」、「友切」と名を変え源頼朝に渡りましたが敗戦が続き、八幡大菩薩のお告げにより刀の名を「髭切」に戻すと源平合戦で見事勝利しました。後に、北条貞時の手に渡り、鎌倉幕府滅亡後、新田義貞が所持することとなりました。
 一方、「太平記」の「直冬上洛事付鬼丸鬼切事」には、源平累代の重宝である「鬼切」と「鬼丸」という二振りの太刀を発端とする事件が記してあります。越前足羽の合戦の時、斯波高経が新田義貞を討って、源平累代の重宝である「鬼切」・「鬼丸」という二振りの太刀を手にしたところから話が始まります。そこで、それぞれの刀の由来が語られます。
 まずは「鬼切」ですが、大和国宇陀郡(現奈良県宇陀市)の大きな森に妖者(ばけもの)がいて、人を捕り食らい牛馬を引き裂くというので、源頼光は渡辺綱に討って参れと、秘蔵の太刀を与えた。渡辺綱が女装して森を通ると妖者が現われたのでその腕を切り落としたところ、逃げた鬼がその腕を奪い返しに来た。その刀は源頼光から多田満仲(=源満仲)の手に渡り、信濃国戸隠山(現長野県長野市)でまた鬼を切ったことにより「鬼切」という名で呼ばれるようになった、とあります。この刀は、伯耆国会見郡(現鳥取県)の大原安綱という鍜冶が鍛えた剣であると「太平記」にあることから「鬼切安綱」とも呼ばれます。ちなみに、大江山で酒呑童子を斬ったとされる刀とされる「童子切安綱」は現在、天下五剣として有名ですが、これを作刀したのも大原安綱です。ただ、この刀と酒呑童子との関係については、豊臣秀吉が名刀を蒐集していた時代の鑑定家である本阿弥家しかわからない話のようです。
 一方、「鬼丸」も天下五剣のひとつと称されていますが、「太平記」によると、この刀を所有していた北条時政が、夜な夜な小鬼が夢枕に現れ苦しんでいると、この刀が老翁に姿をかえて夢に現れ「清浄の人に我が身の錆を拭われよ」と告げたので、錆を拭い抜き身で立てかけておいたところ、火鉢台に造られた小鬼に倒れ懸かり、切り落とした。こうして「鬼丸」と名付けられ、代々北条家の重宝とされた、とあります。「太平記」には「奥州宮城郡の府(現宮城県仙台市)三真国という鍜冶が鍛えた剣である」とあるのですが、史実としては北条時頼(=時政から5代目)が山城国(京都)の粟田口国綱につくらせたものとされ、刀の銘にも「国綱」と刻んであります。なので「鬼丸国綱」と呼ばれることがあります。
 最上家の始祖である斯波家と源頼光とは、ともに清和天皇につながる家系です。源氏累代の重宝である「鬼切」と「鬼丸」は、新田義貞の自害後、斯波尾張守高経(たかつね)に渡り、「鬼切」は最上家初代の斯波兼頼のものとなり、以降、最上家重代の家宝として守り伝えられ、現在は北野天満宮所蔵となっています。一方、「鬼丸国綱」は、足利家に差し出され、豊臣秀吉などを経て、現在は御物として宮内庁所蔵となっています。
 実はここで面倒な問題が現われます。「鬼切安綱」は、この最上家では「鬼切丸」として伝来しており、「鬼切安綱」の銘の「安」が「国」と直されています。「童子切安綱」の登場により同じ安綱では比べられてしまうためそのような直しがなされたのではという推察があり、詳しくは「歴史館だより」(第13号)で元山形市文化振興課長の布施幸一さんが「最上家伝来の宝刀鬼切丸の謎」と題し考察を寄せています。
 「平家物語」は13世紀前半、「太平記」は14世紀後半に成立しているとされているので、「髭切」の話が先にはなります。また、腕を斬られたという鬼は、酒呑童子が召し使う「茨木童子」であるとするのは「御伽草子」ではじめてその名がでてきます。
 ここで皆様お分かりのとおり、「太平記」と「平家物語」では、源頼光が刀を持たせて渡辺綱を使わし、綱は鬼の腕を落としたということまでは同じなのですが、鬼については、その現れた場所も姿格好も違い、綱が用いた刀の刀工も違います。
 実は「太平記」では、頼光の武勇を示すためにその刀の由来を述べているにすぎないので、「髭切」の物語と「鬼切」の物語とは合致しないのです。そもそも鬼が出てきた段階で、それを史実と扱ってよいものなのか。鬼とは女が化けたものなのか、童子が化けたものなのか、実在する民なのか、しかしながら現物の刀である「鬼切安綱」は存在するのです。逆に、筑前国三笠郡出山に住む唐国の鉄細工に作らせたという「髭切」は「平家物語」の中だけに留まります。一方、「髭切」と揃いでつくられた「膝丸」は、源頼光が自身を熱病に苦しめた山蜘蛛を斬ったことから「蜘蛛切」という名で呼ばれるようになります。後に紀州の熊野権現に奉納され、源義経の手に渡ったとき、刀身に映った熊野の新緑に感嘆して「薄緑」と名付けられたとあります。現在、この刀は大覚寺に伝わります。いずれにせよ伝奇と史実とが入り混じっていて、「君子怪力乱神を語らず」とは、実はこうした面倒事に首をつっこむな、ということを言っているのかもしれません。
 今春、東京国立博物館で開催された「大覚寺展」では、大覚寺蔵の「膝丸」と北野天満宮蔵の「髭切」の兄弟刀が同一ケースで展示されていました。2振を左右に並べ、なおかつ表裏両方から見られる展示としてはいましたが、表側は立ち止まらないようにと促され、裏側では制限はないものの刃の部分がよく見えませんでした。

〇 童子が鬼になる話
 鬼というのは、なにかと京都方面に出没していたようですが、茨木童子の腕が切り落とされたのは、「平家物語」では一条戻橋となっており、その後の観世小次郎の謡曲「羅生門」では一条戻橋から羅城門に舞台が変わります。ただし、鬼は鬼女のままです。やがて御伽草子の「羅生門」で鬼は茨木童子となり、さらに芥川龍之介が小説「羅生門」を書き、黒沢明監督が映画「羅生門」を作り、それぞれ全く違う話にもかかわらず、ごっちゃになってしまいます。
 「御伽草子」では、酒呑童子は自身を越後国の者と言っており、一説によると、酒呑童子も茨木童子も若い時、新潟の弥彦神社に預けられていたそうです。弥彦観光協会によると酒呑童子は、「童子が生まれたのは天暦2年(948)、名を外道丸といい、両親は貴族の血筋を引く上方の人のようでした。幼少のころから大変な暴れん坊で、10歳ころになると、生まれつきの美男ぶりはますます光を増し、体つきもたくましくなり、知恵も腕力もすぐれていましたが、乱暴ぶりにも輪がかかりました。両親はひどく心配し、霊場で名高い国上寺(弥彦神社の本地)に稚児として差し出されました。
 童子は寺へ上がると、乱暴をピタリとやめ、熱心に仏の道と学問に励むようになりましたが、何分にもまれにみる美男子とあって、その稚児ぶりは越後中に広まりました。振り袖姿の童子のたもとには、たくさんの娘たちから恋文が投げ入れられ、一目見たいと国上寺へ日参する娘たちの数は増えるばかりであったそうです。
 その童子が16歳に達したころから奇妙な風聞がたちました。近郷の若い娘たちが原因不明の病気で次々死に、いつしかそれは、童子に恋い焦がれた娘たちがかなわぬ思いに悩んだあげくの狂い死にではないかというのです。娘心の執念の恐ろしさを聞いた童子は、ある日密かに、これまで開封せずに行李に投げ込んだまま、一杯になっていた恋文を焼き捨ててしまおうと、行李のふたをあけました。その瞬間、モウモウと噴き出した異様な煙とともに、美しい童子の顔は見るも無惨な鬼の形相と化し、飛鳥のごとく、信州・戸隠の方向へ飛び去ったということです。」とのことです。
 また茨城童子については、「茨木童子は酒呑童子同様、美男子で多くの女性に言い寄られ、将来を案じた母親に弥彦神社に送られることになります。ところがある日、弥彦神社から実家に戻ると母が隠した「血塗の恋文」が見つかります。その血を指で一舐めすると、茨木童子はたちまち鬼に変貌を遂げてしまいます。鬼になったのち、茨木童子は酒呑童子と出会い、京へ向かいます。」と鬼をテーマに活動する酒井望奈未さんが述べています。美女が鬼女になるという話はありがちですが、モテ男が鬼になる話は珍しいのではと思います。もっとも現代では、ホストが実は鬼のようだったという話が後を絶ちませんが。ちなみに新潟県長岡市軽井沢には「茨木童子の里」という場所があります。一方、酒呑童子は、鬼面をつけたまま酔いつぶれたら面がとれなくなって、伊吹山の岩穴で暮らすようになったとする説(伊吹山説)もあります。
 また、討ち取られた酒呑童子の首は都に持ち帰られ、帝、摂政、関白らの叡覧の後、平等院の宝蔵に納められ、これによって源頼光は東夷大将軍に、藤原保昌は西夷大将軍に任ぜられたとされます。一方、都に持ち帰る途中、丹波、山城の国境にある老の坂で急に重くなって持ち上がらなくなり、そこで葬られたという説もあります。ここでも諸説あるわけですが、となると、東夷大将軍や西夷大将軍の話はどうなるのかしらん。

〇 鬼の念仏の話
 あまり聞きなれない言葉ですが「鬼の空念仏」という言葉があります。衣装・小道具だけを僧侶にしても、知らぬは本人ばかりなのか顔かたちは鬼のままであり無駄だということです。つまり、鬼が僧の身なりで勧進を行うというのは、形だけの善行の例えであり「偽善をなす人」を風刺したものです。当時の拝金主義的な仏教界への皮肉や、人間の内面性の怖さを表しているとのことです。
 「鬼の念仏」は大津絵でよくみられる図柄です。大津絵は江戸時代初期に、東海道の大津宿で旅人向けに販売されたのが始まりとのこと。旅人のお土産や護符として売られていました。当初は仏画が中心でしたが、次第に世俗画や戯画が増え、風刺や教訓の意味を持つものが多く描かれましたが、江戸後期には絵柄を十種に絞り大津絵十種として売られていました。とりわけ「鬼の念仏」は、大津絵ができた江戸時代当時から、大津絵店の店頭を飾る看板にも描かれる代表的なものです。
 ちなみに大津絵十種の図柄と御利益を紹介しますと、「鬼の念仏」は子供の夜泣きを止め悪魔を払うもの、「藤娘」は良縁、「瓢箪鯰」は水難除け、「雷公の太鼓釣り」は雷除け、「鷹匠」利益を収め失物が手に入る、「槍持奴」は旅の道中安全、「釣鐘弁慶」は身体剛健にして大金を持つ、「矢の根」は目的貫徹で思い事叶う、「寿老人」は無病長寿・長命を保ち百事如意、「座頭」は倒れぬ符となっているそうです。
 今回の展示では河鍋暁斎が描いた大津絵「鬼の空念仏」も展示します。なぜ暁斎が大津絵を模したのかは不明ですが、暁斎は仏画から春画まで、山水画でも絵巻物でもなんでも巧みに描ける人で、「その手に描けぬものなし」とまで言われたそうです。昨今でも人気で、毎年のようにどこかの美術館などで暁斎展が開催されています。近年の開催数は、もしかしたら横山大観展をしのいでいるかもしれません。暁斎は妖怪図も幽霊図も数多く残されており、妖怪展では必須の絵師ではあります。

〇 鬼の住処(すみか)界隈の話
 「酒呑童子物語」の舞台である京都府福知山市大江山には、鬼に特化した「日本の鬼の交流博物館」(略称・鬼博)があります。かつての鬼ブームの際には、さぞや笑いが止まらなかったかとは思いますが、2023年には鬼博30周年「大江山酒呑童子展」を開催したそうです。
 さて、その大江山のすぐ北には、日本三景のひとつである天橋立があります。そのさらに北には伊根湾というこれもまたすばらしい景色の湾岸があります。伊根湾の沿岸には舟屋と呼ばれる建物が約200程度、軒を連ねています。舟屋は、海から船をそのまま引き入れる車で言えばガレージで、漁師の仕事小屋でもあります。それが湾を取り囲むように並ぶ景観は、山に囲まれた盆地に住まう私のような者にとっては、本当に想像を超えるものでして、正直、日本三景以上に魅力的な場所です。
 かつては、天橋立を自転車で渡ったり伊根湾を漁船のような海上タクシーで巡ったりしましたが、今はなんと、天橋立から伊根湾をめぐる大型観光遊覧船が30分間隔ででているとのことで、記憶情報のアップデートをせねばと思うのですが、さらに、ご当地のお土産と言えば、丹後の黒豆やちりめんかな、などと思っていたのですが、この付近はイワシがよく獲れるそうで、天橋立の名物土産はオイルサーディン、伊根の名物土産はイワシのバーニャカウダだそうです。やはり記憶情報のアップデートをせねばと思うのです。人に古い話ばかりしてもしょうがないので。

○ 鬼ヶ島の話
 あとひとつ、鬼がらみの話にお付き合いを。鬼退治の話として、最も知られているのは桃太郎。その話の原型は、古代吉備王国(備前、備中、備後地域)がヤマト国家に服属していく過程の温羅(うら)伝説とされています。この温羅は、製鉄集団を連想させる伝説ともいわれているそうです。百済の王子である温羅という鬼を、ヤマト国家から派遣された吉備津彦が討ったという話ですが、岡山では吉備津彦が桃太郎であるとして、桃太郎の里としてきびだんごを名物にしています。桃太郎がきびだんごを与えたという話は、吉備津彦命が温羅と戦う際に老漁夫からきびだんごを献上されたという伝説や、岡山が黍(きび)の産地であったためとのことです。
 実際、岡山駅でのお土産といえば「きびだんご」しかない感じですが、ちょっと目先を変えれば、もっともらってうれしいものがあります。そうです、マスカット・オブ・アレキサンドリア、全国の95%が岡山県産とのことです。その季節ともなると、全国各地のデパートの地下にある某高級菓子店では、これをまるごと求肥で包んだお菓子をみかけますが、1個が牛丼と同じくらいの値段なので、これが6個入りともなると牛丼6杯分のお値段となるわけでして、そう安々と買ったりはできません。参考までに、山形市内の菓子店では、この7掛程度の値段でシャイン・マスカットを求肥で包んだお菓子が売られてはいますが、そういう問題でもないとは十分承知してはおります。
 さて、桃太郎と言えば鬼ヶ島ではありますが、瀬戸内海に女木島(めぎじま)というところがあります。女木島の中央部にある鷲ヶ峰山頂には巨大な洞窟があり、その昔、鬼が住んでいたと伝えられていることから、別名「鬼ヶ島」とも呼ばれています。
 昔、瀬戸内の某芸術祭に家人とともに行ったときのことです。高松市の北約4km、フェリーで高松港から約20分のこの女木島に、山形からこの島になんかの勢いで上陸してしまったなぁと、それが嬉しくも面白くて家人とともに笑っていたら、現地で迎えてくれたガイド役の若い夫婦から、「この人たち笑っている。」と珍しがられてしまいました。鬼ヶ島で笑っているというのが珍しいのか、島では笑うことがないのか、とにかく珍しかったらしいです。
 港から軽ジープで島の中央にある「鬼ヶ島大洞窟」まで送ってもらいました。大正3年に香川県鬼無町の郷土史家が発見したもので、洞窟が造られたのは紀元前100年頃とのことです。その洞窟の中をしばらく行くと、人を捕らえる監禁室などがあり、その奥には絵にかいたような鬼の人形が置いてありました。当然、金銀サンゴなどはなく、あとはただ帰りの船の時間にあわせて港に戻るだけですが、対向車がくればそのままではぶつかってしまいそうな狭くて信号もない道をワイルドな運転で山を下っていくわけで、案の定、不意に対向車が現れ、間一髪のところで回避したものの、こっちの運転手も動揺していて、ここでも家人とともに笑うしかありませんでした。
 
■ 想像物の話
 約5年ほど前、国立民族博物館で「驚異と怪異」という想像上の生き物を集めたものすごい展覧会がありました。その図録の序文には「人間の脳には限界があり、直接感知できない存在の姿を想像するためには、既知のイメージの部品をなんとか駆使して心像を描くしかありません。その表象のプロセスには、文化人類学者レヴィ=ストロースのいう「ブリコラージュ」(寄せ集め)の思考が見てとれます。」とあり、また、「想像のつかないものは、想像できない」という映画監督スタンリー・キューブリックの言葉も紹介されています。
 今回展示する「山海経」に描かれる生き物がまさしくそうで、数多くのさまざまな生物が登場していますが、それは動物に人の頭、魚に羽や足、首や手足が複数あったりなかったりといったパターンがほとんどです。そう言えば、エジプトの神々などもそんな感じでしょうか。
 一方、日本の妖怪の場合、単なる寄せ集めではなく、想像の幅が相当に広くなります。例えば「百鬼夜行」では付喪神(つくもがみ)という、百年もたつ器物に聖霊が人をたぶらかすものが記述されます。あるいは、何か音がするとそれは妖怪の仕業として、それぞれに対応する妖怪が名付けられたりします。例えば「小豆洗い」や「べとべとさん」など柳田国男の「妖怪談義」にも数多く掲載されています。
 「和楽」のweb記事に「妖怪とは、人知を超えた怪奇現象やそれを起こす不思議な力、非日常的な事象をモチーフにした化物のこと。「妖(あやかし)」「物の怪(もののけ)」などとも呼ばれています。古代では、生物・無生物にかかわらず、自然物にはすべて精霊が宿っていると信じられてきました。妖怪と神の役割は同じく、誰のせいにもできない災禍(さいか)は、人間を超越した存在のせいにすると納得できたのかもしれません。」とありました。
 以上からすると、山海経の時代と日本の妖怪との差というのは、「ブリコラージュ」と「精霊」との差であるようです。この「ブリコラージュ」で思い出すのは、個人的には昭和のヒーローものでして、当時、「快傑ライオン丸」というTVドラマがありまして、これは頭がライオンの剣士が活躍する時代劇で、原初的な「ブリコラージュ」であります。そのドラマの一つに、敵を倒した際に金砂地の太刀が折れ、兄弟弟子の徳心居士がそれを繋ぎ直すため腹に突き刺すというのがあり、幼心に衝撃をうけた話でありました。実はあの「鬼切」にも似たような話がありまして、腕を取り戻しにきた鬼の首を切り落としたところ、頭は太刀の切っ先の五寸を喰い切ったのですが、僧都覚蓮が七日加持すると、天井から折れた刃が下りてきて、覚蓮が切っ先を口に含むと、たちまちに元通りになったそうです。ライオン丸の太刀も、口に含むだけで直せたならねぇ。
 仮面ライダーでも特にV3では付喪神的な怪人がでてきます。デストロンという悪の組織がつくる怪人は、道具と生き物とを合体させる機械合成怪人というもので、「マシンガンスネーク」とか「ドリルモグラ」とかはいかにもという感じですが、「テレビバエ」とか「ガマボイラー」とかになるとナゼこの組み合わせというか、あの「ミシンと傘の偶然の出会い」以上の組み合わせのような気がします。
 一方、「ゴジラ」や「ガメラ」は「精霊」寄りのようで、災禍を基礎とする意味では「ゴジラ」も、あるいはガメラにでてくる「ヘドラ」などはブリコラージュでは創りえないような造形ではと思います。よく調べてみると「ヘドラ」のデザインには女性器や海坊主から引用しているといい、そう言えば妖怪絵図にも男女問わず性器を模った妖怪が描かれたりしたものもあります。それにしてもそれは、大らかなのか恐怖からなのか、どんな仕業をする妖怪なのかしらん。
 また、名付けで気になるのはウルトラマンです。それに出てくる怪獣には、ブルトンとかダダといった名が散見されるわけで、そうです、当時の美術スタッフの皆さんが当時の美術界隈の作家や運動を紛れ込ませていたと思われ、もしかしたらデュシャンとかマンレイなどという怪獣も用意されていたかもしれません。一方、ウルトラセブンには、聖書に出てくる人や地名がそれとなく使われています。ペテロとかカナンとか。きっとアンデレとかゴルゴダなんていうのも候補名になっていたのではないかと。ついでに、あのタローマンが映画になってこの8月に公開されるとのこと。昭和100年ということで、恐らく関連グッズは完売必至かと。余計な話でした、すみません。

〇 付喪神の話
 「百鬼夜行図」は、もとは「今昔物語集」や「宇治拾遺物語」にあるとおり100体の鬼の集団を描いた絵図です。また、「付喪神(つくもがみ)絵巻」というのも同じ室町時代に描かれ、江戸時代には、河童、天狗、猫又、ぬらりひょんなどが登場する図絵が登場します。
 百鬼夜行に出あうと大病を患ったり死んでしまうと信じられていたため、百鬼夜行が出現する「百鬼夜行日」には、貴族などは夜の外出を控えたといわれています。京都の一条戻り橋はその中心の一つとされていました。一条戻り橋は渡辺綱が腕を切り落としたとする場所でもあります。陰陽師の安倍晴明がこの橋の下に式神を隠していたという話もあるそうです。
 さて、有名な伝土佐光信の「百鬼夜行図」は、描かれた妖怪のうち半分が「付喪神」です。付喪神は、長い年月を経て器物に魂が宿り、しかも化ける能力さえ獲得するとされる存在です。「九十九神」という表記も使われ、九十九年、つまり100年近く使い古されたものに宿ると考えられていました。
 100年経つと妖怪になるとすると、今年は昭和100年にあたり、大正期以前の器物はすべて付喪神になるわけで、博物館はまさに付喪神だらけということになります。特に今年注目すべきはラジオでして、日本でのラジオ放送は、1925年3月22日に東京放送局(現在のNHK)が試験放送を、7月12日に本放送を開始しました。つまり当時の放送を受信したラジオはもはや付喪神となる年月を経ています。もしかしたらそれらは、夜な夜な、怪しい声とかを発しているかもしれません。
 室町時代は器物の妖怪のことを「つくも神」と呼んでいて、それは「つくも髪」であり「九十九(つくも)」のことであったといいます。「九十九」は「百」の字に一画たりない「白」の字の代用で、白髪を「つくも髪」とも言っていました。また、水中の岩などに藻がつくほどの歳月が経っていることから「つくも」と言ったという説もあります。なぜ九十九を「つくも」と読むのかというと、つくもの「も」は百(もも)のことで、古典の「次百」(つぐもも)に由来し、「常に百を目指して挑戦する」という意味が込められているそうです。
 山形市には「九十九鶏弁当」というのがあり、その名の由来はわからないのですが恐らく100を目指していたのかと。とにかくこの弁当は、それこそ山形市民の高級ソウルフードというか、この弁当さえ出しておけば、どんな場面でもどんな弁当よりありがたがられる神のような弁当ではあります。

〇 地獄観光の話
 皆様ご承知のとおり、国内には地獄と銘打った有名観光地もいろいろありまして、ざっと思いつくだけでも登別温泉、箱根、別府温泉など、いずれも有名な温泉地でもあります。
 まずは「登別地獄谷」。岩肌の裂け目から白煙が立ち上り、まさに絵に描いたような地獄の風景が眼前に広がります。温泉町から歩いてすぐの場所でアクセスも容易。国際的にも有名らしく、ほぼインバウンドさんばかりで、日本語での会話が全く聞かれない場所でもあります。地獄谷の入口から鉄泉池へと続く遊歩道が、毎日夜間にライトでほのかに灯され「鬼火の路」と名付けられています。
 つぎに「箱根大涌谷」。その昔は「地獄谷」と呼ばれた場所で、ここも白煙が立ち上る地獄のような景色の上空をロープウェイで行くのですが、ロープウェイで地獄に連れられて行く感じです。1分間隔(!)で運行されていて、途中下車できます。その中央にある大涌谷駅で有名なのが真っ黒いゆでたまご。硫化水素で殻が黒くなっているのですが、たいへん美味しく「一つ食べると寿命が7年延びる」と言われています。確かその時、私は2個食べたので、14年くらい寿命が延びているはずです。とにかくアクセスがよく小田原から御殿場、芦ノ湖、三島まで使える「箱根フリーパス」というのが信じられないくらい便利で、ロープウェイの他、バス、電車、箱根海賊船まで乗れてしまいします。
 そして、「別府地獄めぐり」。7つの地獄と名付けられた場所があり、赤、青、白の池であったり間欠泉であったり鰐がいたりする地獄をめぐるものです。「血の池地獄」以外はいずれも100度に近い熱泉で、その共通観覧券は、別府地獄組合というところで販売しています。1日で全てを巡ることもできるので、お手軽な観光ではあります。なので私は2巡程しています。また、別府八湯という八つの温泉郷(浜脇温泉、別府温泉、観海寺温泉、堀田温泉、明礬温泉、鉄輪温泉、柴石温泉、亀川温泉)があり、これをめぐるスタンプラリー「別府八湯温泉道」というのもあるのですが、入湯修行をうたっているだけに、一日でめぐるのは大変かと。さすがにこれは行けていません。
 そうそう、温泉スタンプラリーで思い出したのですが、長野県の渋温泉に「九湯めぐり」というのがあります。温泉地内の地元の人だけが入る共同浴場(外湯)を巡り、「祈願手ぬぐい」にスタンプを押印するというもので、宿泊者限定で外湯の鍵を預かり巡るというものです。急げは半日程度で廻れます。というのも、いずれも結構熱くて長湯ができないからです。ささやかな自慢話をすれば、ここでは金具屋に宿泊することができました。四万温泉の積善館とともに例の某ジブリ映画のモデルとも言われる旅館です。
 さて、渋温泉は温泉街としてとても風情のある素敵な場所なのですが、この近くに有名な地獄があります。地獄谷野猿公苑という、あの温泉に入るサルで有名な場所です。ここにはライブカメラが据え付けられ、「サルたち出勤予報」というのもネットで見ることができます。この温泉地にある「湯田中駅」までは長野電鉄が通っています。特に「スノーモンキー」号と名付けられた車両は、成田エクスプレスの旧型車両が用いられていて、「ハットラック荷棚」という旅客機のような扉付き荷棚など、当時、成田空港にこれで往復した方にはたまらないです。長野電鉄はこうした車両をいくつか走らせていることで鉄道ファンには有名で、鉄オタでもない私もかつて、あの旧小田急ロマンスカーの先頭車両に図らずして乗れた時には感激ものではありました。
以上、地獄観光というよりも、個人的な旅の思い出話ではあります。

〇 地獄八景の噺ではなく話
 落語に「地獄八景亡者戯(じごくばっけいもうじゃのたわむれ)」という大ネタがあります。1時間以上の噺で、これを高座にかけるときには「〜に挑戦」とまで書かれたりもします。この落語は聴いてる最中は面白いのですがあまり記憶に残らず、なぜか微かな感動のみが残る感じです。地獄そのものはあまり出されず、閻魔や鬼たちとのやり取りが中心となるのですが、駄洒落などのオンパレードで、地獄でのショッピングは「メイドイン冥途」、ナイトライフは「骸骨のストリップ」、映画館もありまして、親鸞、法然、道元、日蓮、出演のSFXの超大作「スター・ボーズ」とか、アニメ「ドザエモン」とか、流れる歌謡曲は「三途川の流れのように」など、寄席も亡くなった名人ばかりのそうそうたる顔ぶれとなるのですが、とある高座で、「桂枝雀 近日来演」と噺に入れたところ、間もなく本当に亡くなってしまい(うつで自死)、その時は洒落にならなくなったという話があります。
 さて、地獄八景とは申しますが、地獄は一般的には8階層(等活地獄、黒縄地獄、衆合地獄、叫喚地獄、大叫喚地獄、焦熱地獄、大焦熱地獄、無間地獄)あるとされていて、またそれぞれに16の小地獄が付いていて、都合8+16×8=136の地獄があるそうです。それぞれの地獄へは生きていた時の罪状(1殺生、2偸盗(ちゅうとう=盗み)、3邪淫、4飲酒、5妄語、6邪見、7犯持戒人(=尼僧などを犯すこと)、8父母と阿羅漢の殺害)で決まります。殺生だけなら等活地獄、それに偸盗が加われば黒縄地獄、それに邪淫が加われば衆合地獄へとなり、全てを犯せば無間地獄となります。
 一番軽いのが殺生というのは意外かもしれませんが、蚊を殺しても殺生ということで、大抵の人がこの地獄に落ちることとなります。もはやムリゲーのような世界なのですが、殺生と当然かかわる戦国武将などはこれ故に、仏道に熱心であったという説もあります。また、妄語というのは嘘のことで、嘘をついたことがないという人もほとんどいないと思われますが、やっかいなのは、殺生と妄語だけで大叫喚地獄に行ってしまうのかということです。また微妙なのは、略奪愛は偸盗なのか邪淫なのか、それに酔った勢いが加われば飲酒なのか。そもそもなぜに飲酒は叫喚地獄まで行かなければいけないのかと。まあ、いろんな疑問やら想定やらあるとは思いますが、たいていの場合、まずは大叫喚地獄行きです。
 さて、それぞれの地獄では寿命というか刑期があり、例えば一番軽い等活地獄は500年です。ただし、人間界の50年を一日とした場合の500年がこの地獄の一日としてそれが500年と計算するので人間界では1兆6653億1250万年です。無限地獄となると人間界の6400年を一日とした場合の6万4000年を一日として6万4000年で349京2413兆4400億年にあたるとのこと。ただ、この計算方法には諸説あり、この期間を一中劫(こう)という単位で表すこともあり、それは計算すると3億1996万年ほどになるといいます。この劫とはヒンドゥー教では1劫 は 43億2000万年です。ただ、「一中」というのがややこしい計算になります。
 そしてその場所なのですが、最下層の無間地獄は地上から4万由旬(ゆじゅん)の深さで縦・横・高さ各2万由旬の大きさがあり、その上つまり深さ2万由旬から一番浅い深さ1千由旬の等活地獄までの1万9千由旬の中に、その他の7つの地獄が重層しているそうです。
 由旬とは長さの単位で、牛に車をつけて1日引かせる行程のことなのだそうですが、人間の背丈の8,000倍という説もあるのでそれであれば約13km、地球の直径は約13,000kmなのでちょうど深さ1千由旬のところにある等活地獄あたりが地球の反対側となり、日本からみればブラジルあたりが等活地獄ということでして。その以降は宇宙へ突き抜けてしまいますが、そこは異空間というかマルチバース宇宙というか。ちなみに、三途の川の幅は40由旬とのことです。東京〜大阪間程度でしょうか。なお、「地獄八景亡者戯」には、三途の川の渡し銭の話もあって、それは死因によって料金が違うとのことです。
 さてここで「血の池地獄」の話でも。これは血でできた池に入れられて、その血を飲まされるという地獄ですが、実は仏説にでなく、偽経である「血盆経」に由来して鎌倉時代頃からのものと考えられています。女性は血の穢れのために血の池地獄に堕ちるとされもので、今どきであればジェンダーに関わる差別的な事象ではあります。ただ、そこには救済者である如意輪観音がいて、この「血盆経」が書かれた紙を渡してくれるそうです。また、子どもを産まない女性は石女(うまずめ)地獄へ堕ちるということになっていて、この時代の女性観が地獄にも表れています。
 実は男性専用の地獄もあります。「刀葉林(とうようりん)」という衆合地獄にある小地獄ですが、刀葉樹という刀の葉が繁る木の上から美女が招き、そこへ登ると木の下にその美女が現れ、登り降りして身体がずたずたに裂かれるのを永遠くり返すというものです。
 また、男女ともに地獄というのが「両婦(りょうぶ)地獄」でして、1人の男性が蛇体となった2人の女性に巻き付かれるのですが、つまりは正妻と妾との嫉妬などで苦しめられる地獄でして、絞める方も絞められる方も地獄ではあります。いわゆる修羅場とも言われるものですが。
 さて、別府にある「血の池地獄」は、日本最古の天然地獄で、1300年以上の歴史を持つそうです。この池の脇にレトロな売店がありまして、この池から湧き出る粘土から作った皮膚病に効く「血の池軟膏」を明治時代から販売しています。このパッケージがまたレトロで、買わずにはいられない、というか私は買ってしまいましたが、魅惑的な品です。この他「血の池地獄温泉水」とか「血の池地獄 蚊取り線香」とかこれからの季節にピッタリです。
 ちなみに「地獄の一丁目」という言葉がありますが、名古屋には極楽一丁目から五丁目まであるようです。そこへは行ったことはないのですが、味噌カツ食べ放題とか、ひつまぶしおかわり自由とか、きっとそんな場所なのかと。

〇 地獄文学の話
 「地獄変」というと、同名の芥川龍之介の作品を思いだされる方も少なくないとは思います。あれはなんとも救いのないような話で、地獄も鬼も描かれている話です。芥川龍之介の作品には、「蜘蛛の糸」とか「羅生門」とか、地獄の中の人間の業のようなものをえぐり出すものがいくつかあります。
 芥川龍之介に「孤独地獄」という作品もあります。そこには「仏説によると、地獄にもさまざまあるが、凡およそ先づ、根本地獄、近辺地獄、孤独地獄の三つに分つ事が出来るらしい。それも南瞻部洲下過五百踰繕那乃有地獄(なんせんぶしうのしもごひやくゆぜんなをすぎてすなはちぢごく)ありと云ふ句があるから、大抵は昔から地下にあるものとなつてゐたのであらう。唯、その中で孤独地獄だけは、山間曠野樹下空中(さんかんくわうやじゆかくうちゆう)、何処へでも忽然として現れる。云はば目前の境界が、すぐそのまま、地獄の苦艱を現前するのである。自分は二三年前から、この地獄へ堕ちた。」とあります。芥川龍之介の中の地獄です。
 また、「侏儒の言葉」には、当然のように「地獄」という項目があります。「人生は地獄よりも地獄的である。地獄の与へる苦しみは一定の法則を破つたことはない。たとへば餓鬼道の苦しみは目前の飯を食はうとすれば飯の上に火の燃えるたぐひである。しかし人生の与へる苦しみは不幸にもそれほど単純ではない。目前の飯を食はうとすれば、火の燃えることもあると同時に、又存外楽楽と食ひ得ることもあるのである。のみならず楽楽と食ひ得た後さへ、腸加太児(ちやうカタル)の起ることもあると同時に、又存外楽楽と消化し得ることもあるのである。かう云ふ無法則の世界に順応するのは何びとにも容易に出来るものではない。もし地獄に堕ちたとすれば、わたしは必ず咄嗟の間に餓鬼道の飯も掠かすめ得るであらう。況や針の山や血の池などは二三年其処に住み慣れさへすれば、格別跋渉の苦しみを感じないやうになつてしまひさうである。」芥川龍之介の人生に比べれば、地獄など単純すぎるようです。
 それでは最後に、山形に所縁のある地獄文学でも。芥川龍之介も注目したという斎藤茂吉の代表的な歌集「赤光」には、「地獄極楽図」連作11首というのがあります。これらの地獄の情景は、茂吉の郷里である山形県金瓶村宝泉寺で毎年展示する掛図の記憶に拠るものだそうです。
   浄玻璃にあらはれにけり脇差を差して女をいぢめるところ
   飯の中ゆとろとろと上る炎見てほそき炎口のおどろくところ
   赤き池にひとりぼつちの真裸のをんな亡者の泣きゐるところ
   いろいろの色の鬼ども集りて蓮の華にゆびさすところ
   人の世に嘘をつきけるもろもろの亡者の舌を抜き居るところ
   罪計に涙ながしてゐる亡者つみを計れば巌より重き
   にんげんは牛馬となり岩負ひて牛頭馬頭どもの追ひ行くところ
   をさな児の積みし小石を打くづし紺いろの鬼見てゐるところ
   もろもろは裸になれと衣剥ぐひとりの婆の口赤きところ
   白き華しろくかがやき赤き華あかき光を放ちゐるところ
   ゐるものは皆ありがたき顔をして雲ゆらゆらと下り来るところ
茂吉の見た地獄というのは、こういうトコロテンということで、あっ、いやその、某ドラマで言ってるじゃないですか、「ありがた山」とか「おまち丼」とか。

2022/06/30 09:00 (C) 最上義光歴史館
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