最上義光歴史館/最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【七 竹辰之助の行方を追って】
●
トップページ
■
お知らせ
■
最上氏と最上義光
├
最上氏と義光について
├
最上家をめぐる人々
├
小野末三論文集
├
片桐繁雄執筆資料集
├
最上家臣余録
├
郷土の歴史
└
最上義光略年譜
■
歴史館について
├
沿革と概要
├
収蔵資料について
├
書籍のご紹介
└
利用者アンケート集
■
Material in English
├
Guide to our Exhibits
└
Saijoki -
The Mogami Chronicles -
■
ご利用案内
├
アクセスマップ/所在地
├
開館時間/休館日/入館料
└
見学の裏ワザ
最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【七 竹辰之助の行方を追って】
最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先
【七 佐竹辰之助の行方を追って】
忍藩の『親類書』を書上げた佐竹伝右衛門は、従兄弟の一人に辰之助の名を挙げている。とすれば、『親類書』の内記の五人の息子達の内に、辰之助の父親が居ても不思議ではない。それは一体、伝右衛門の父を除いた四人の内の一人なのか。
万治三年(1660)佐倉藩改易当時の分限帳に、二百石の禄を食んでいた辰之助と、その母親の名がある。思うに、未だ若輩の辰之助に二百石を給されていたのは、既に父親を亡くし家督を継いでいたからではないか。その父親も内記の子であったのかも知れぬ。しかし、これはあくまで推測の域を出ないのであるが、考えられないこともない。
そして、『親類書』は「堀田市郎殿家来」と、佐倉藩以後の消息を伝えた。この掘田市郎とは推なのか。当時の掘田氏の係累を調べた限りでは、「市郎」を通り名にしている人物は見当たらない。これは改易された藩主正信の「与一郎」の誤りではないか。
正信は佐倉を去り、身柄を信濃飯田藩に移される際に、数十人の家臣が同行しているが、
辰之助もその内の一人ではなかったろうか。時の飯田藩主は、正信の実弟の脇坂安政であ
った。
その後、脇坂氏の播磨竜野への転封により、寛文十二年(1672)に小浜藩酒井氏へ預け替えとなる。そして、正信の素行の悪さから、四名の供のみを従え、最期の地の徳島藩蜂須賀氏へと移り住んだ。『徳川実紀』に日く、「堀田上野介正信こたび松平阿波守綱道に改預らるるにより、その家士四十八人、松平隠岐守定直(松山藩)、松平越中守定書(桑名藩)、脇坂中務少輔安政(竜野藩)にあづけらる」とあり、その他の者達は三藩に分かれ預けられている。松山藩の記録『松山叢談』によれば、「掘田公家来御預一件、集書に左の通上下十五人請取」とあり、二名の家臣とその奥方と子供達、それに下女・中間なども含まれていた。また桑名藩の記録『松平家家譜』でも、五名の家臣とその家族達を含め九名としており、『徳川実紀』の「その家士四十八人」預けらるの記事は、家族をも含めた数であったと思う。ただ残念なことには、 竜野藩のみは未だ解明できておらず、辰之助の消息を未だ解明するに至っていない。
■執筆:小野末三
前をみる>>
こちら
次をみる>>
こちら
2011/04/06 08:54 (C)
最上義光歴史館
■
人気の記事 Best 3
第1位
休館日
第2位
休館日
第3位
【10月の休館日】←ここをクリック
■
ダウンロード
├
歴史館だより
├
最上義光からの挑戦状!
├
見学の手引き
├
解説シート
├
スクリーンセーバー
├
壁紙/アイコンバナー
├
ペーパークラフト
└
日本100名城スタンプ
■
ムービー集
■
こどもページへGO!
■
周辺の見どころ
■
スタッフレポート
■
キーワード検索
2024年10月
日
月
火
水
木
金
土
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
11
12
13
14
15
16
17
18
19
20
21
22
23
24
25
26
27
28
29
30
31
members login
powered by
samidare
system:community media