最上義光歴史館/最上家をめぐる人々♯28 【北楯大学助利長/きただてだいがくのすけとしなが】

最上義光歴史館
最上家をめぐる人々♯28 【北楯大学助利長/きただてだいがくのすけとしなが】
【北楯大学助利長/きただてだいがくのすけとしなが】 〜庄内開発の恩人〜
   
 最上家臣のなかに、神としてまつられた人物がいる。
 北楯大学助利長である。
 慶長5年(1600)の関が原合戦後に最上領になった庄内の大部分は、当時は広大な原野だった。
 狩川城主となった利長はこの原野を水田にしたいと考えた。
 それには水がいる。しかし、最上川は低いところを流れているから役に立たない。
 利長は現地をくわしく調べ、月山の北側を流れる立谷沢川に目をつけた。この流れをせきとめ、堰を掘って水をもってくればいい。大事業だが、これしかない。
 慶長16年(1611)、利長の提案に、一部家臣が反対したが、これを押し切って、義光は着工を命じた。山形藩最上家としての一大事業である。
 翌年工事が開始された。責任者となったのが、発案者北楯利長である。工事に従事する人夫は、新たな最上領である由利・岩屋・亀ケ崎・鶴ケ岡・大山それに櫛引の各地から、6千2百87人を、藩命をもって動員し、これに地元狩川郷からの出役をふくめて、7千人を越えたとされる。
 堰を通す現場は、全体として一方を最上川が流れ、片方は月山につらなる山地がせまっている傾斜地である。なかでも清川の御諸皇子(ごしょのおうじ)神社あたりは、たいへんな箇所だった。苦心して掘り進めた部分が、ずるずると川の側に崩れ落ち、16人の人夫が生き埋めとなる事故も起きた。さらにその西側は、最上川が急な崖をつくって流れ、もっとも困難なところだった。掘り削っても埋まり、埋めても流され、工事ははかどらなかった。
 利長は、これは川の神が工事を喜ばないからだ、なんとか神意を慰めようと、金銀・螺鈿で装飾をほどこした自分の鞍を、渦巻く淵に投げ入れた。するとたちまち流れが静まった。その後は順調に工事が進んだという伝説も、地元には語り伝えられている。
 義光はこの事業に大きな期待を寄せていた。工事最中に利長にあてた手紙が九通現存している。次は、そのなかの1通、5月18日の日付のものである。
 「其元普請心許なく候間、重ねて一書に及び候」に始まり、以下現代語にしてみる。
 「一日二日の間に、二千間、三千間も出来ていると聞いている。野陣に出て、夜昼の別もなく働いているとのことこちらへも聞こえている。それにつけても、健康が許せば自分も現場へ行きたいのだが、そうすれば皆も喜び、自分も楽しみになるのだが、それができないのが残念だ。地元、清川・狩川の者たちは、特に苦労をしているだろうと推察している。このことを、皆々に申し聞かせてほしい」
 義光はこのとき67歳で、健康にかげりが見えていたらしい。現場に行けないことを悔しく思い、現場で働く利長の苦心を察し、働く人々のにも温かな思いやりを寄せているのである。
 次は、8月5日付けの手紙。
 「そちらの堰普請、だいぶ出来たようだが、企画設計にあたったその方の日夜の苦労いかばかりかと察している。立谷川から堰に水が流れ入り、たっぷりと流れているということだが、庄内にとって末長く宝の堰となるだろう。その水でどれほどの新田が開発できるか、村々がふえるか、それを思うと何より喜ばしい……今月十八日には江戸へ出発するが、江戸に行ったら幕府の主立った方々にも、その方の功績を伝えておこうと思う」
 工事は難工事だったが、これらの文書からは、案外スムーズに進捗したようにも見える。新しい領地庄内が開発されていくのを、義光は楽しみにしていたのである。事業の成功を利長の功績として幕府に報告するというところに、家臣を大事に思う義光の心情がうかがわれる。
 一説では、堰完成後、義光は彼に3千石の加増を行なったともいうが、これについてはなお研究の余地がある。
 利長に対しては、義光は堰普請以外のことでも、親しみのこもった手紙を書いている。
 たぶん慶長16年かと推定される5月1日、工事開始より1年ほど前の日付である。
 最上家で何か祝い事があったらしく、それにかかわる用向きを述べた手紙に、義光は次のような追って書きをした。
 「おって、京都にて思いもよらない自分の官位について、御所様(家康)から仰せ出された。過分、かたじけないことと、皆々満足に思うのももっとものことだ」
 義光が従四位上近衛少将に叙任されたときのものらしく、喜びをそれとなく伝えたのであろう。
 また利長が、居館を山の上からふもとに移したい、屋敷まわりに堀をめぐらしたいと願ったときにも、あっさり承認を与えた手紙もある。
 慶長17年(1612)の秋に完成を見た延長10キロメートルを超える堰が、「北楯大堰」である。これ以後、最上川左岸の狩川余目、藤島の新田開発が進み、新しい村が数多く誕生した。
 米どころ庄内平野の水田約8千ヘクタールが、現在もこの堰の恩恵をこうむっており、利長は「開発の恩人、水神様」として、立川町「北館神社」の祭神となったわけである。


北楯利長画像/最上義光歴史館

 ちなみに、最上時代には、庄内地方の各地で大規模な河川改修や用水堰開削が行なわれた。鶴岡市を洪水から防ぐ青龍寺川、赤川から水を分ける中川堰、因幡堰などである。これらはその後長い時間をかけて完成したものだが、スタートは最上時代だった。それらの代表的存在が、北楯大学助利長による「北楯大堰」だといえるだろう。
■■片桐繁雄著
2010/08/06 11:22 (C) 最上義光歴史館
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