■ 「茶の本」の話 この「喫茶去」という言葉が浮かんだのは、実は当時、茶や茶道具や茶室関係の本に興味関心をもっていて、そのような本の端々で目にした言葉でした。また、岡倉覚三(天心)の「茶の本」について、もっと若い時にしっかり読んでいたらなぁとか、でも、若い時は内容を理解できてなかったかもなぁとか、いろいろ思ったときでした。 例えば、この本にはつぎのような文言があります。 「茶には酒のような傲慢なところがない。コーヒーのような自覚もなければ、またココアのような気取った無邪気もない。」 「茶道は美を見いださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。」 易しいような、でも、それなりの感性や経験も求められるような内容です。 「茶の本」で、特に心にささる語句が、「beautiful foolishness of things」という語句で、この「茶の本(The Book of Tea)」というのはもともと英語で書かれており、特にこの語句をどう訳すか、センスが問われるのですが、直訳すれば「物事の美しき愚かさ」。物事の魅力というのは美しくも愚かなことにあるということで、確かに「バカだねぇ」というのが最高の誉め言葉だったりします。 この語句が含まれる第1章「人情の椀(The Cup of Humanity)」の有名な終末部分を引用します。 Meanwhile, let us have a sip of tea. The afternoon glow is brightening the bamboos, the fountains are bubbling with delight, the soughing of the pines is heard in our kettle. Let us dream of evanescence, and linger in the beautiful foolishness of things. この村岡博訳はこうです。 「まあ、茶でも一口すすろうではないか。明るい午後の日は竹林にはえ、泉水はうれしげな音をたて、松籟はわが茶釜に聞こえている。はかないことを夢に見て、美しい取りとめのないことをあれやこれやと考えようではないか。」 常々このような境地でいたいものだなぁ、と思うわけです。
ちなみにこの前段には、つぎのような文章があります。 「現代の人道の天空は、富と権力を得んと争う莫大な努力によって全く粉砕せられている。世は利己、俗悪の闇やみに迷っている。知識は心にやましいことをして得られ、仁は実利のために行なわれている。東西両洋は、立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜のごとく、人生の宝玉を得ようとすれど、そのかいもない。この大荒廃を繕うために再び女媧(じょか:Niuka)を必要とする。われわれは大権化(ごんげ:Avatar)の出現を待つ。」 ここで、女媧とは中国神話に登場する創造母神で、権化とは「神の化身」ですが、それはさておき、状況的には現在とよく似ている感じです。いわゆる「ドンロー主義」により某政権は、西半球の支配と権益確保を最優先するとしており、一方、東半球は中国による覇権もやぶさかではない感じで、両者はまさしく「立ち騒ぐ海に投げ入れられた二竜」のような状態です。 それにしても、東半球とか西半球とかはあまり聞き慣れない言い方ですが、とりあえずイギリスのグリニッジを通る本初子午線(経度0度)を境界とするとのこと。ここで問題なのは日本の位置づけで、現在、政治的には西ですが、地理的には東であり、アメリカにとって日本列島は「万里の長城」のようなものですが、この先どうなることやら。西や東とともに、ついでに右とか左とか中とかも。 確かに日本の位置関係を表すときは、極東という言われ方をしていまして、日本駐留米軍の放送もかつてはFEN(Far East Network:極東放送網)と称していました(現在はAFN(American Forces Network))。でも、アメリカから見れば日本は西の方向のような気もするのですが。どっちかの西は東というか、どっちかの夜は昼間というか、それはやはり「U.S.A」というわけでして。