最上義光歴史館/館長の写真日記 令和7年10月10日付け

最上義光歴史館
館長の写真日記 令和7年10月10日付け
 当館では10月16日(木)よりコーナー展示で「収蔵名品展〜松」を開催します(来年1月12日まで)。松はその独特の形態から多くの画家の描くところとなり、また、常緑であることから吉祥樹として、さらには神が降臨する樹ともされているものです。当館収蔵品の中から松が描かれている大画面の障屏画(屏風・板戸・襖)3点を展示します。松の表現の一端を紹介することによって、あらためて日本美術と文化財に対する関心を高める、との担当学芸員の説明でしたが、それでもなぜ「松」なのか、きっと「そこに松があるから」という、「そこに山があるから」と同じようなものではないかと。
 さて、松の絵で有名なものとしては、「松の廊下」という毎年のように年末の某時代劇に登場する場所がありますが、全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下で、襖に松並木と千鳥の絵が描かれています。江戸城にはこの「松の廊下」以外にも大広間をはじめ、あちこちに松の絵が描かれています。
 他に緑の松の絵の代表的なものはというと、能舞台の背景画でしょうか。「鏡板」と言われる舞台背景に堂々とした松が描かれ、それは演目にかかわらず松の絵のままです。この松の木は、春日大社の鳥居の近くにある「影向(ようこう)の松」というクロマツをモチーフにしています。昔、春日大明神が翁の姿で降臨され、万歳楽を舞われたことから、松の木は芸能の神の依代(よりしろ)であり、神さまが宿る場所とされたとのことです。余計な話をすれば、1995年にこれが枯れたため、巨大な切り株の横に後継樹の若木が植えられたそうです。
 能楽堂によって松の木の描かれ方は違うそうですが、この松の木の描写が定着したのは、室町後期の貴族邸宅での能の公演が盛んになった頃からとのことです。能の歴史は奈良時代にまで遡り、室町時代に観阿弥・世阿弥父子によって確立されたのですが、室町時代、足利将軍家が能を愛し能役者を庇護したことから、能は武士の嗜むべき諸芸のひとつになりました。武家の間に広まったのは、観能の場が武士たちの社交・情報交換の場となったことからとも言われています。戦国時代になると、能は武将たちに保護されるようになり、有力大名を頼って地方へ下る能役者が続出しました。
 徳川幕府は第2代将軍秀忠の時に、能を幕府の式楽(公式行事で演じられる芸能)と定められ、能役者は武士の身分となり俸禄を与えられました。大名の御殿や前庭には必ず能舞台が設けられ、慶事や公式の行事の際には能が演じられました。
 とは言うものの、山形城には能舞台がなく、現在でも山形市内には、東北芸術工科大学に水盤に囲まれた現代建築の「水上能楽堂」があるのみです。一方、米沢市の上杉博物館に隣接する置賜文化ホールには、なんとホバークラフト式で移動させる能舞台があります。
 能舞台には、舞台背景の「鏡板」に描かれる松の他に、「橋掛かり」に沿って設置される松の絵もあります。「橋掛かり」とは、本舞台と出入り口(揚幕)をつなぐ廊下状の通路ですが、幽玄の世と現世を結ぶ、あるいは長い旅路を表現するなど、遠近感を生み出す演出空間としても機能します。ここには舞台から遠ざかるほど低くなるように三本の松(一の松、二の松、三の松)が順に配置され、演技の目安や遠近感の演出に利用されます。さらに「橋掛かり」と反対側の舞台側面には「竹」が描かれます。鏡板の松は樹齢を重ねた老松ですが、竹は若竹です。竹は松とともに常緑であり、生命力や成長を表します。
 そして「松」「竹」ときたら「梅」はないのかと。実は能舞台には梅は描かれません。その理由は諸説あるらしいのですが、一説によると梅は直接見るのではなく暗闇の中からかすかに香るものとして、あえて描くことをしないとのことです。
 とにかく「松竹梅」をもって、空間、時間のみならず気配までも演出しているとは、能舞台、恐るべしです。


(→館長裏日誌へ続く)
2025/10/10 13:00 (C) 最上義光歴史館
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