最上義光歴史館/館長裏日誌 令和7年5月31日付け

最上義光歴史館
館長裏日誌 令和7年5月31日付け
■ 日本刀の力学特性の話
 日本刀の理想は「折れず、曲がらず、よく切れる」こととよく言われます。
 これは形状とともに材質の問題ではあります。日本刀の場合、心鉄(しんがね:やわらかい鉄)を皮鉄(かわがね:かたい鉄)で包むことで「折れず、曲がらず」を実現しています。また「よく切れる」ためには、とりあえず研げば切れるのですが、研ぎすぎると刀身が細くなり、しまいには地金がでてきます。「地金がでる」という言葉は、隠していた本性や癖が現れることをいいますが、もともとは日本刀からでた言葉ではあります。ちなみに「なまくら刀」という言葉がありますが、これは焼きが甘いものを指します。これは「硬度が出ておらず、腰も弱くて、切れ味に欠ける」という「折れず、曲がらず、よく切れる」の全て満たさない刀のことです。
 さて、博物館に新たに刀剣を収蔵する場合は、まずこの「研ぎ」の心配をしなければなりません。別に切れる状態にしたいわけではなく、錆落としのためです。赤錆などはもってのほかですが、白い曇りのような錆がある場合も少なくありません。しっかりと錆を落としつつ、一方では刀が痩せないよう最小限の研ぎとしなければなりません。当然、専門の研ぎ師に研ぎに出すこととなるのですが、大変なのがその「研ぎ代」の予算化でして、変な比較にはなりますが、包丁の研ぎと比べると金額は2ケタ程度違います。
 さて、「折れず、曲がらず」とは、材料力学的にはせん断耐力(強さ)と靭性能(粘り)と言い方になるのですが、鋼材の力学特性としては、弾性域から塑性域を経て破断点に至ります。つまりビョンというものがグニャリとなってプチっといくわけです。このビョンというのは弾性域つまり曲がっても元に戻る状態のことで、これが元に戻らなくなる状態つまり塑性域に入るところを「降伏点」と言い、降伏点に至るような力の状態を「降伏条件」と言っています。「刀折れ矢尽きる」と言う言葉がありますが、力学的には曲がった刀が元に戻らなくなれば降伏となります。ただこの「降伏条件」はいろいろな組み合わせがあるわけで、まして日本刀のように複雑な組成や形状であると、恐らく実際に実物を用いて実験しないことにはわかりません。
 さらに形状や素材的な力学的特性を申しますと、「折れず」というのは「曲げ強度」のことで、「断面二次モーメント」を「中心軸から最外縁までの距離」で割ったもの(=「断面係数」といいます)で表されます。また、「曲がらず」とは「曲げ剛性」のことで「断面二次モーメント」に「ヤング率」を掛けたもので表されます。ここで補足しますと「断面二次モーメント」とは断面の形状の違いによる変形のしにくさのことで素材は関係ありません。一方、「ヤング率」とは力に対するひずみの量のことで素材によって異なります。このあたりは工学系では必修で、基礎式もシンプルなのですが、いざ適用しようとするとなかなかに面倒です。
 特に日本刀の場合は、部分により断面形状ばかりか組成も変り、しかもどの位置にどんな方向から力が加わるかという初期条件もいろいろ想定できるため、どうなると折れたり曲がったりしまうかは、やはり試してみないとわからないでしょう。まあ、こういう場合は、モデル化というやり方で整理するわけではありますが。
 そもそも、こんな小難しいことを述べても実際は、日本刀で注目されるのは「反り」とか「波紋」だったりするわけで、「断面二次モーメント」とか「ヤング率」とかを気にする人はまずいないわけです。そんなことより、どんな構えで、相手のどこをどう斬るといったところから、反りや長さ、刀身の幅や厚さを造り込んでいくことになります。これが江戸中期ともなると二本差しで邪魔にならない形状というのが求められたわけで、もはや切れるかとか強度や剛性とかは二の次で刀の形状が決まっていきます。
 ところで、日本刀には鎬(しのぎ)という刀身の側面で筋状に小高くなっている部分がありますが、この鎬により刀の強度を保ちながら刃を薄く切れやすい形状にすることができます。この鎬はまさしく「断面係数」に関係する部分でして、特に横方向からの強度に影響します。「鎬を削る」という言い方がありますが、刃と刃をぶつけ合えば刃こぼれしてしまうので、鎬や棟(むね:刃と反対側の部分)で受けたりしますが、刀の構造上、平地や棟に大きな衝撃を受けてしまうと折れる確率は高まります。
 ちなみに日本刀の棟(峰とも言います)の部分を使って相手を斬らずに殴打する技法に「峰打ち」というのがありますが、これは打つ瞬間に刃先を返す、すると反りが逆になり、我が身には刃が向く、というかなり高度で危険な技でして、しかも刀を曲げてしまう可能性も少なくなく、実際にはほとんど用いられなかったとのことです。ただ殴打するだけなら、刀を鞘ごと帯から抜き取ってその鞘で打つそうです。
 なんか力が抜ける感じですが、そもそも峰打ちは、終戦後、GHQが映画やテレビでの殺人シーンを許可しなかったため、決闘シーンで殺人が起きないようにするために考え出されたもの、と「刀剣ワールド」の説明にありました。赤羽刀のみならず、こんなところにも日本刀にGHQが影響していたたようです。

■ 日本刀の機能的な謎について
 鎬の機能は先に紹介したとおりですが、機能的によくわからないのが「樋(ひ)」という刀身に彫られる長い溝です。樋には「血流し」という俗称があるそうで、敵を斬ったときに血が樋の中を流れていく様子から名付けられたとも言われます。ただし、樋の役割を記した史料が見つかっておらず、定説となっているのは「刀身の強度を低下させずに刀身を軽くするため」、「見栄えを良くするため」、「風切り音を出やすくするため」の3つとのことです。ちなみに風切り音については、実際に刀を振ってその音を収録した動画がネットにありました。
 さて、今回当館で展示している刀には、この樋がない刀が幾つかあり、ひとつは月山刀、あとは水心子とその弟子が打った刀で、偶然にいずれも山形に関係する刀ではあります。なぜ樋がないのかは知る由もありませんが、「血流し」や「見栄え」や「風切り音」は恐らく無用だったのでしょう。つまりは、ひの打ち所がなかったからで、いや、ただのオヤジギャグですみません。ちなみに水心子のものは、刀身が厚めで同じ長さの刀と比べると重量があり、つまりは「軽量化」も無用としているようです。
 また2振の短刀を展示しているのですが、ひとつは一筋の立派な樋が彫られ、いかにも血が流れるような感じにはなっていますが、もうひとつは細い模様のような線が2本平行して刻まれ、しかも刀身の半分までしかなく、明らかにこれは装飾と思われます。短刀の場合は、少なくても「軽量化」とか「風切り音」は無用かと思われます。


↑2本の樋が刻まれた短刀


↑ 磨上げられた茎に残る樋と目釘穴

 ついでに、「磨上げ」についても少々。磨上げとは使い勝手を良くするため太刀を短くしたものですが、それは切っ先を詰めるのではなく、茎(なかご) つまり刀身の 柄 (つか)に被われる部分を詰めていくのですが、当然、刃と茎の堺(区(まち))も動くので、新たに茎となった部分に樋の跡が残っている場合もよくあります。
 茎には銘が刻んであり、これは刀の評価のひとつとはなるのですが、磨上げによって銘が途中で切れているものを「銘切れ」、もとの茎が全て切り詰められたものを「大磨上げ」と言います。また、柄を茎に固定するための目釘をとおすための穴(目釘穴)も磨上げにより新たな位置に開けられ、複数の目釘穴やそれを塞いだ跡があるものもあります。逆にこうした磨上げや補修が加えられていないものは「生ぶ(うぶ)」と呼び、収集家などからは珍重されます。
 ここで思い出したのが、以前の職場に車好きの若い職員がいて、中古車をいろいろイジっては、また別の車に乗り換えるということをしていたのですが、「この前、車を売ろうとしたんだけど、いろいろと金をかけていい車に仕上げているのに、なかなか高く買ってくれないんだよなぁ〜。」と、ぼやいていました。
 いや、これはその、カーオーディオとかタイヤホイール程度ならわかりますが、サスペンションやマフラー、ましてエンジンまでイジっちゃった車は、それはいくら金をかけたものであっても、いや金をかけるほど、普通の人は遠慮するのではないかとは思うのですが。
 ちなみに、武具や甲冑などに後で勝手に家紋なんかを入れたものがあり、こうなると博物館での歴史資料としての評価はぐっと下がるというか、おいそれとは展示できないものになってしまいます。それでも所蔵せざるを得ない場合がありまして。

■ 水心子正秀の話
 当館の今回の展示には、新々刀の祖水心子正秀の刀もありますので少々そのお話も。(以下、水心子正秀については、主に「市報なんよう」および「刀剣ワールド」を参照しています。)
 慶長年間につくられた新刀は、身幅が広く、刀身は厚く、南北朝時代の太刀を短くしたような作りでした。江戸時代に入り武士は大小二本差が義務付けられたため、刀剣は腰に差して歩くのに適した長さで、反りの浅いものとなりました。
 江戸中期ともなると天下泰平の世を反映して刀工の数が減少し、作刀が衰退しはじめました。一方、鞘は黒蝋色塗が正式でしたが、朱塗りや蒔絵などの変り塗鞘が発達し、鍔も色金や彫金鍔などが数多くつくられ、多くの名工を輩出しました。出掛ける先々に合せて拵(こしらえ)つまり鞘や柄や鍔などの刀装具を付け替えることなどもされていました。もはや刀剣は武器ではなく装飾品としての機能が求められていて、これを粋とみるか見栄とみるか、まあ、いろいろではあります。
 そのような時代、水心子正秀(1750〜1825)は南陽市元中山に生まれました。幼名は三治郎。父を早くに失い、血縁の鈴木権治郎家や赤湯北町の外山家に身を寄せました。赤湯北町で野鍛冶をし、刀鍛冶をめざし、1771年に22歳で武蔵国八王子の宮川吉英に入門。宮川吉英は実戦本位の日本刀を作刀することで知られていました。
 出羽国に帰国し1774年(安永3年)に、山形城主秋元但馬守永朝(あきもとつねとも)に刀工として召し抱えられます。ちなみにこの秋元家、最上家の次に長い78年間も山形を治めた武家です。特に永朝は、武器・武具の職人を保護し、山形城の修復なども行いました。
 水心子正秀は1781年(天明元年)に出府し、日本橋江戸浜町屋敷秋元家鍛冶所で鍛錬に精進します。一方、刀鍛冶名人の子孫をたずねて学びました。1789年(寛政元年)名人正宗の子孫である山村綱広に入門、系図と秘伝書を授けられました。華美で反りの少ない日本刀に対して物足りなさを感じていた水心子正秀は、独自の刀剣理論である「刀剣復古論」を提唱します。後に「新々刀」と呼ばれる、反りが深く、実用本位の日本刀作りに邁進するとともに、「刀剣実用論」や「刀剣武用論」などの著作を刊行し、多くの門下生を育てました。つまりはマニュアルにまとめ、オープン化を推進したわけで、ここが新しい時代を築いたといわれる由縁でもあります。
 水心子正秀が育った山形県南陽市赤湯にある、桜の名所ともなっている烏帽子山八幡宮には、水心子正秀の顕彰碑があり、その付近には「水心子正秀」と染め抜かれたのぼり旗が何十本も刺してあります。ここの八幡宮では、所蔵する水心子正秀の脇差の写真入りの御朱印(1000円)も売られています。通常の御朱印は500円でしたが、それにしてもかつて御朱印というものは300円が相場でしたが、ここ数年でどこでも500円になってしまいました。絵馬もかつては500円程度だったのですが、今は1,000円が相場のようで、なんか米価格並みの引き上げ幅となっています。人件費を含め諸物価値上がりの中、仕方のないこととはいえ、願掛けにもコスト意識が必要になってきていて。これで1,000円以上のリターンが見込めるだろうかとか。とにかく、絵馬の政府備蓄とかあるわけでもなく、まして「絵馬は500円で出せる」とか言う大臣がいるわけでもなく。


↑そこかしこに立てられている「水心子正秀」のぼり旗


2022/05/31 17:15 (C) 最上義光歴史館
人気の記事 Best 3
キーワード検索
2025年06月
1234567
891011121314
15161718192021
22232425262728
2930

赤字は休みになります。
members login
powered by samidare
system:community media