最上義光歴史館/館長裏日誌 令和6年10月17日付け

最上義光歴史館
館長裏日誌 令和6年10月17日付け
 今回は、「秋の読書特大号」ということで、字数でいくと通常の約4割増しです。とは言え、ただ引用文が多いだけですので、よろしくお付き合い願います。

○ 可笑記の話
 ここで少々「可笑記」からいくつかを要約してご紹介します。
〈その1〉慈悲に大小のある事 
 「人間だれにでも慈悲の心があるが、慈悲には大小の二つあり、小を捨てて、大を取らなければならぬ。
 たとえば、冬の寒いとき、船も橋もない川に行き当って、渡りかねている旅人をみつけて、その地の領主が、家来に令して、旅人を一人ずつ背負って渡したとしよう。慈悲深い行いとして、感謝されるに違いない。しかし、これは小の慈悲である。 
 なぜならば旅人たちはありがたいと思うであろうが、背負って渡した家来たちは、冷えて腹を立てるに違いない。その川には橋を掛ければよいのである。橋を掛けるのが困難ならば、渡し舟を設け、渡し守りに手当を与えるがよい。そのようにすれば、川を渡りかねて困る旅人もなく、冷え凍えて腹を立てる家来を出すこともない。これが大の慈悲である。
 むかし、賢君と言われた某帝は、寒夜に衣を脱ぎ、民と寒さを共にされたとのこと。帝王として民を思われる御心のほどはありがたいことだが、万民に衣服食物が行きわたって、飢えず凍えぬような正しい政治が行われるのに比べたら、劣ると言わねばならない。これも小の慈悲である。」(卷二_35)
という話ですが、慈悲があるくらいならまだいい方で、今の政(まつりごと)は成果すら出ない、言い訳程度とかやった感とか、そんなのが多いような気がします。

〈その2〉それもまたよし
 「後漢の時代に、司馬徳操といぅ高徳の誉れを専らとする人があった。この人は、何を尋られても、ただ「それもまたよし」と返事するだけであった。
 ある人が尋ねて、
 「世間であなたのことを高徳の人として専ら評判しています」
 「それもまたよし」
 また、ある人が尋ねて、
 「世間であなたのことを、馬鹿者と評判しています。悔しいじゃありませんか」
 「それもまたよし」
 というありさま。
 あるとき、人がやって来て、
 「私、最愛の独り息子に先立たれました」
 と涙ながらに訴えると、それにも
 「それもまたよし」
 とだけ答えた。妻が見かねて、
 「なんということですか。高徳という評判を信じて、悲しみを訴え、励ましのことばの一つも聞いて、寂しさを慰めようと、遠くから尋ねていらっしゃったというのに、お子さんが亡くなったと聞いて、それもまたよし、なんて言う人がありますか」
 と、声を荒らげると、
 「それもまたよし」
 と答えた、とのことである。」(卷三-15)
 実はこれ、周りが優秀の場合、もっとも理想的な主人のような気がします。そして、この対応はまさに、ブレていないと言うか、ブレようがないと言うか。

〈その3〉金剛の正体
 この男、仏に具わる三つの徳を知りたいと高僧を訪れた。そこで先ず「金剛(こんごう)の正体というものを考え出してみよ」とその僧にいわれる。
 とりあえず彼は「藁(わら)」と答える。金剛というはき物(金剛草履)が藁でできているから、という。
 高僧はかすかな笑みを浮かべ、それを打ち消す。そして「金剛の正体というは、音ありて、なき物かと思えば、元来、その時にしたがって、あるもの也」と教える。
 男は、難しい問答だと思いながら、ひとまず高僧のもとを辞すが、山門近くまで来て突然ひらめいた。高僧の所へ急ぎ立ち返り「ただいま教わった金剛の正体は、”へ”であるに違いない」という。高僧は片腹痛く可笑しさをこらえ、「その心は」と問う。
 男は「”へ”と申す物ハ、音ありて、手にもとられず、目にもみえず、色にもそまず、火にもやけず、水にもぬれず、きってもきられず、かくては、元来なき物かと思えば、腹中のときにより、いくつもある物にて候」と答えた。」(卷四-11)
 実はこれは、以前「歴史館だより」に紹介されていた話です。禅問答を揶揄しているものですが、これに似たような噺をつぎにもう一つ。

〈その4〉 熊野山伏と禅僧 
 昔、臨済宗の行脚僧が、熊野山の駆出山伏と道連れになって言った。
「山伏殿、そなたはどんな霊験をお持ちかな」
「役の行者を慕い金剛胎蔵両峰の峰入りをはたし、不動明王が左手に持つ索の縄の威力を体得したところ。この笈(おい)の内から不動の尊像を出して祈れば、たちまちわが身より火炎を吹き出してご覧に入れよう。さて、そなたの霊験は、いかなるものかな」
「そもそも禅宗は、ぬか漬ひときれ、一膳めしの粗食ゆえ、霊験などもってのほか。さりながら、ひとたび精神を集中すれば、たちまちわが身より水を吹き出し、いかなる猛火も消してご覧に入れよう」
 それを聞いて山伏は烈火のごとく怒り 
「さらば、わが火炎を消してみよ」
と、背中の笈を道ばたにおろし、不動の画像をぱらりと掛け、数珠を音高くすり上げすり下し祈ると、不思議や、絵像の不動が立ち上り、山伏の頭からつま先まで走りぬける。すると、頭巾や衣が煙をあげて燃え出した。山伏は勝ち誇って、
「これを見よ、禅坊主。消せるなら消してみよ」
と叫ぶ。すると僧は、少しもあわてず、
「しからば消してご覧に入れよう」
と、山伏の面前に立ってまたを広げ、衣のすそをかかげ、おもむろに下帯をはずし、山伏の頭肛、衣、数珠、不動明王の尊像をめがけて、小便をかけた。すると、さしもの猛火もたちまち消えうせる。これもまた不思議な霊験。」(卷五-50)
 今度は禅僧を持ち上げた話、と言ってよいのやら。なんか下ネタが続いてしまいました。ならばここは、下ネタついでにもうひとつ。

〈その5〉 夜の洗濯 
 「昔、ある坊主が、若い女を寺においた。あるとき、壇家の一がやって来て言った。
「寺に若い女は似つかわしくありません。どんな御用があって召し置かれるのか、うけたまわりたいものです」
「さよう。昼間は参詣の女人のお相手をさせるため。夜には、洗濯を言いつけており
まする」
と坊主は答えた。夜の洗濯とは、はて、何をもみ洗いするのであろう。」(卷五-10)
 そんな、何をもみ洗いするのであろう、と言われても、ねぇ。

○ 土芥寇讎記(どかいこうしゅうき)の話
 「土芥寇讎記」は、なかなか辛口な人物評で知られています。しかし、松平直矩についてはベタ褒めで、「直矩、生得寛然トシテ、将之威自ラ備リ、殊文武ノ両道心ヲ掛、旧記麗ヲ好テ、古戦又雌雄・主将ノ智愚・謀略ノ是非ヲ論ズ。生得勇智発明ニ、仁義ヲ正シ、忠節ヲ尽ト欲セラル。人使ヒ能ク、家民ヲ憐ム叟厚シ。物毎立派ヲ好ル故、家士奇羅ニ弊アリト云リ。美小人ヲ愛セラルト云トモ、聊偏愛ノ気ナシ。当時誉ノ将卜、世以沙汰ス。」とあり、結びに「尤も誉ノ善将、褒美スルニ余り有ベク。」とあります。
 ここで、美小人とは美少年のことで、この手の情報もこの「土芥寇讎記」にはよく記載されて、その影響も記載されているのですが、どうやって調べているのやら。
 さて、「引越し大名」とも言われた松平直矩(1642〜95)は、徳川家康の男子直系の曽孫にあたります。つまり、父・直基(1604〜48)は、徳川家康の男子直系の孫にあたりますが、徳川家康の次男である結城秀康の五男です。
 さて、この結城秀康(1574-1607)は不運の人とも言われています。まずその生い立ちでは母が妾として認められず、兄の信康が織田信長に切腹を命じられ(1579年)亡くなったのですが、小牧・長久手の戦い(1584年)により羽柴秀吉の養子として差し出されたため、徳川を継ぐことができませんでした。しかし、下総の大名・結城晴朝の孫娘との婚姻を機に結城家の家督を継ぎます。その後秀康は、関ヶ原の戦いの戦功を評価され、慶長6(1601)年、越前国へ転封、68万石(!!)を領したものの、34歳で亡くなります。跡を継いだ秀康の嫡男の忠直は松平姓を称します。
 一方、松平直基は慶長十二(1607)年に結城家の家督を相続し、慶長十九(1614)年に結城晴朝が死去したため、その隠居料5千石を相続。元和元(1615)年、越前国勝山の1万石を与えられます。寛永3(1626)年に従四位下(大和守)となり、結城を改めて松平を名乗ります。直基は、4度の引っ越しがありました。
  寛永元(1624)年  越前勝山藩3万石
  寛永十二(1635)年 越前大野藩5万石
  正保元(1644)年  山形藩15万石
  慶安元(1648)年  姫路藩15万石
 ここで直基は、姫路城に国入りする途中に急逝。子の直矩は、姫路城主としてはまだ幼すぎるとの理由で、翌年に越後村上15万石に所替え。寛文七(1667)年に播磨姫路の藩主にあらためて任せられます。しかし、越後高田藩で起きたお家騒動=越後騒動に巻き込まれ、天和二年(1682)に蟹居の命を受け減封されました。
  天和二(1682)年 豊後日田藩 7万石
  貞享三(1686)年 出羽山形藩 10万石
  元禄五(1692)年 陸奥白河藩 15万石
 結局、直矩は延べ5つの藩主を経験し、江戸時代の全大名の中で最多の地を経験した大名となるそうです。なお、この話を基に「引っ越し大名」という映画も作られています。(松竹映画2019年公開、監督:犬童一心、主演:星野源)

○ 松平大和守日記の話
 松平直矩は17歳から54歳で亡くなるまで、「大和守日記」を書き続けています。原本は明歴二(1656)年から元禄八(1695)年までの39年分があったとされ、長い間保存されて昭和に入ってもこの家の当主である松平伯爵邸にありましたが、戦災で焼失してしまい存在しないそうです。活字化されたものとしては、朝倉治彦「松平大和守日記」(「日本庶民文化史料集成・第十二卷」所載)、と鈴木紳三の同名の本(村上古文書刊行会)があります。
 では、その日記の内容を。まずは、萬治二(1659)年新年から
 萬治二年 越後国村上ト云所ニテ
 正月一日祝 書院ニテ鷹共見ル 数二十居也
       礼之次第 (以下、来客および持参品を列挙)
 同日    江戸より飛脚来ル 参勤之時分正月中仰御奉書来ル
 同二日   桜ノ馬場ニテ馬之ノリ初スル
 同日    鷹ツカイ初出ル 
 同三日晩  謡初次第 居間ニテ吸物相伴 (以下、来客を列挙) 
       於書院高砂謡初 書院酒過 於居間ニ酒モリ在之
 同四日   能見物覚
  高砂、実盛、あふみの上、三井寺、猩々 (それぞれに演者を列挙)
同六日   弓初之次第 (以下、参加者14名を列挙) 
 同晩    十烓香之次第 (以下、品目と参加者20名を列挙) 
 以上が、正月はじめ一週間の日記ですが、村上の城内であろうともまあ、忙しい。
一日には鷹を見て、多くの来客を迎え、江戸からは参勤交代の手紙がくる。二日には馬に乗り、鷹を飛ばす。三日には謡の宴会、四日に能の見物、六日に初射会と烓香(なんと20本)であります。続けて参勤交代の道中の記録を、
 同月十二日 村上発足。
 同十三日  あじろ新田 〜 にいかた
  以下、寺泊、かしハ崎、春日新田 泊
 同十七日  高田 中殿ニ懸御目 松嵜 是よりそり(橇)にのる
       越後殿よりのこらす晩朝料理被下
 同十八日  善光寺
  以下、坂木、追分、くらかね、鴻巣 泊
 同廿三日  本郷 (江戸の鳥越屋敷に到着)
 この道中には1月12日〜23日の12日間を要したことになります。冬の越後を抜けるのに日数がかかったようですが、それにしても参勤交代に橇(そり)も使っていたとは。通常はこれとは違うルートで村上〜江戸を10日以内で行けていたようです。日記には、道中、立ち寄った地名が、いずれの日についても20か所近く記録されています。地名を地図でたどるのも一興でしょう。
 江戸に着くと早速、登城についての手紙を受け取り、その後2月上旬まであいさつ回りをしているようです。どこそこにふるまいに行くという記録はマメにあります。また、この頃の日記でよく目にするのは、食べ物と飼い鳥のことです。4月には、初かつを、初なすび、初白瓜などを見たとあり、鳥屋などから、小瑠璃、三光、ゑなか子、雲雀ノ子、こま鳥、白頭鳥などを取り寄せるとあります。一方、「裏の土手にて雀一匹吹き矢にあたる」という記録も残しています。
 また江戸では、出羽殿という方との親交が深く、互いに行き来し、匂袋や遠眼鏡などをもらったという記載もあります。また、能や狂言などは舞台を見に行くほか、屋敷に演者を招くこともあり、例えば「晩 出羽殿へ行き狂言見物」とあり、「祝言、川原市、かさの下、つんほうざとう、ちねんこじ、くまの物語、羽衣、などの演目と演者が記録されている他、後藤左衛門が女装束で団扇で舞うとか出羽様の小坊主3人が三味線、鼓を奏で、しはかきを舞う、などとあります。
 同年6月6日には「御本丸小屋へ絵書探幽、同図書来」とあります。つまりあの狩野探幽がきたと。「同十二日探幽・図書ニ申付候屏風出来」。一週間もしないうちに屏風が納品されたようです。28日には探幽に、富士山の横物絵を一幅、四季花鳥の絵を四幅一対を依頼し、7月9日には富士山の絵ができ上ってきます。
こうしたことの他に、地震や大風、火事などの発生や被災者数などの記録もあり、災害年表の記録としても価値のある資料となっています。そのような中、ちょっと珍しい事柄について詳しく書かれていることがあります。
寛文三年(1663年)5月21日の日記です。
信濃守の御噺として、雲州の桐橋伊兵衛小女に狐がつく、というものでしたが、小女に憑いた理由を問うと、この女にうらみはないのだけれど、われわれの杉の木を植え替えたためと云うので、杉を植え直ししたところ、元に戻った。とのこと。
 これに続けて、別の狐憑きの話が記されます。原文を掲載しますと、「浅野因幡守殿にて小女二きつねつき有 其比因州庭に狐昼ねして居候を見つけられ 鉄胞にてうたれ候へハ ミおとりをとつてくるくるとまわり死 其刻かの女も如右にして死 このよしいなは殿きかれ それならハ気本復すへしとて 気つけなとのませられ候へハ 追付本ふくすよし」。つまり、憑いた狐を鉄砲で打ったら、女も死んでしまったのだが、これをきいた殿は、それなら元に戻ると、きつけ薬を飲ませたら、復活したということです。狐憑きを目の当たりにしていた時代だったようです。

○ 秋と言えば、芭蕉の有名な句の話
 「土芥寇讎記」が手掛けられる前年の元禄2年に、松尾芭蕉が山形を訪れています。もちろん「土芥寇讎記」と「おくの細道」との関連は不明ですが。
 松尾芭蕉の有名な秋の句に、「秋深き 隣は何をするひとぞ」というのがあります。晩秋に自分の孤独感を重ねて、人恋しさを表現した句とのことで、予定していた俳席に体調不良で出られなかった際に、弟子に渡した発句です。元禄7年9月28日、芭蕉51歳のときの作で、寝込んだまま翌29日から亡くなる10月12日までついに起きることができなかったとのこと。10月8日深更に最後の句となる「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を詠んでいます。
 この「秋深き〜」は本来、なかなかな寂寥感漂う句ではありますが、現代の状況にあてはめると、また、違った意味を持つ句となります。例えば、パソコン相手に仕事をしている職場であれば、隣席の人にこんな思いを抱くことがしばしばあるかも。まして、リモートワークとなれば、隣が誰かもわからないわけでして。
 また、パロディも多く派生している句でもあります。例えば、ネットでみかけた句で「秋深き あなたは何をするひとぞ」というのがありましたが、普通はそんな真っすぐな物言いはしないものですが、恐らくちょっと風流な職務質問とかでしょうか。
 「秋深き 隣は何を買うひとぞ」
これはコスト○とかドン・キホー○の「あるある」です。
 「秋深し ユニク○にユニク○ 重ね着る」 
「秋深き」を具体的に表してみました。実は「ユニク○にユニク○ 重ねて 秋深し」とすれば落ち着くのですが、「秋深き」を用いてしかも字余りとすることにより、なんとなく新味な感じになるような。
そして、食欲の秋ということで三句。
 「秋深き 大盛 つゆだく オム玉子」     某牛丼店にて詠めり
 「秋深き ましまし もっと ましましに」   某ラーメン店にて詠めり
 「秋深き 昼からワインを マグナムで 」   某イタリアン店にて詠めり
お粗末様でした。

○ 「積ん読ざんまい」の話
 読書系のポッドキャストに「積ん読ざんまい」という番組があります。2人の女性読書家(?!)によるトーク番組で、ひとつの本を話題に1〜2時間、話をするものです。月1回のペースで既に40本以上アップされています。ある回で山形国際ドキュメンタリー映画祭のことを熱く語っているので、あれっと思ったのですが、バリバリに山形・宮城方面で活動されている方々からの発信でした。
 「誰もが知っている名作から、あなたの知らないニッチ過ぎる本まで、ゆるいトークで紹介していく読書系Podcastです」との自己紹介がなされていますが、かなり振り幅の広い選本となっています。
 特に興味深かった回が「スヌープ・ドッグのお料理教室」、あのパリオリンピック閉会式でロスからの生中継で歌っていたラッパーのスヌープ・ドッグが著した料理本です。日本語版は「スヌープ・ドッグのお料理教室 60のプラチナ極上レシピ」(晶文社、2022年)。彼はテレビの料理番組をもつほどの料理好きとのことで、この本でもかなり強めのビジュアルな料理が並び、そのレシピには日本、特に山形では見ることのできない調味料が次々とでてきて、再現が大変という話などが語られていました。なんとあの土井善晴先生もこの本のレシピを試していて、思うように再現できなかった、と書評をあげてました。
 あと「月刊ドライブイン」の回も興味深いものです。昭和生まれの者にとってドライブインというのは、道中必ず立ち寄る場所でして、これが道しるべともなっていたわけですが、今や絶滅の危機に瀕しています。この月刊誌はいわゆる業界誌ではなく、全国各地に残るドライブインを訪ねながら毎号2軒を紹介。店主へのインタビューやお店の歴史、食事メニューなどをルポルタージュしている冊子ですがvol12で終刊となっています。これをまとめた「ドライブイン探訪」(筑摩書房、文庫版もあり)という本が出ているのですが、月刊も入手できたとか、山形〜宮城にあるドライブインの話とか、共感溢れ出る内容でした。
 元書店員の「マト文庫」さんと犬と珈琲を愛する「カジワラ珈琲」さんによる番組ですが、どちらかというと聞き役のカジワラ珈琲さんという人は、実は山形では知る人ぞ知るコーヒーの焙煎士であり、店を持たないため、その豆は幻ともなっているのですが、映画館「フォーラム」に隣接する店で、常時このカジワラコーヒーが飲めます。

2021/10/17 09:00 (C) 最上義光歴史館
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