最上義光歴史館/館長裏日誌 令和6年7月28日付け

最上義光歴史館
館長裏日誌 令和6年7月28日付け
〇 アイヌ語由来の地名の話 
 真室川町も鮭川村も、実は明治の大合併(明治22年)以後に現れた町村名です。合併時にそこを流れる川の名称をそのまま町村名としたようです。そこで川の名称の由来ですが、鮭が遡上してくる川を「鮭川」と言うのはわかりやすいのですが、「真室川」となると見当がつきません。一説では付近の「神室(カムロ)山」がなまって「マムロ」になったとにことですが、カ行がマ行になるというのはどうかと。
 もうひとつはアイヌ語源説です。特に東北の場合、由来がわからず当て字のような地名は、アイヌ語に因ってみよと。困った時のアイヌ語源説ということで、ちなみに「マムロ」というのはマ(泳ぐ→船着き場)とムロ(村)からなりたつとの説を見つけました。しかし、少々調べたのですが、ムロ(村)というアイヌ語は見当たらず、単語を見比べているうち、別の説が浮かびました。あくまでも素人考えなのですが、モム(流れる)という語とオロ(所)という語で、モムオロ(流れる所)ではないかと。ただ、川沿いの場所を「流れる所」と言うには、「鮭川」以上にそのままなので、どうしたものかなぁ、という感じではありますが。
 ついでにもうひとつ。鮭川が流れ込む最上川ですが、「最上川舟歌」という民謡業界では有名な民謡があります。その冒頭は「ヨーイサノマガショ エンヤコラマカセ」と、作業歌としてごく当たり前の掛け声で始まるのですが、続く「エーエンヤーエー、ヤーエー、エーエンヤーエー、 エード」という部分(なんか区切り方がおかしいのですが)が、イスラエルの神聖なる神の名前「ヤーエー」が繰り返し連呼されているという「最上川舟歌=ヘブライ語説」がネットで流されています。「私と神、我が神、永久の神」という意味なのだとか。
 ちなみにこの曲のカラオケは、結構な難易度です。このヘブライ語と言われる囃子詞(はやしことば)の後の歌い出し部分が、尺八だけとの絡みとなって、どう音をとっていいのかわからないのです。音が合せられないという点では、クィーンの「ウィ・ウィル・ロックユー」のカラオケに通じるものがあります。もちろん個人的な感想ですが。
 実は「最上川舟唄」には、日本語以外にも英語版、韓国語版、中国語版の他、フランス語版があり、最上川船下りの「最上峡芭蕉ライン観光」の船内では、海外のお客さんなどからのリクエストにあわせ披露しているそうです。
 フランス語版を作った時は、船頭全員が毎朝の発声練習の際に、フランス語で舟唄を歌っていたそうで、例えば歌詞中の「股(まっかん)大根の塩汁(しょっつる)煮」は、「ルポトフ、サレ、ドゥ、ラディ、デフォルメ」となっているそうです。そうか、二股大根はドゥ・ラディ・デフォルメと言うのかと。さて、パリ・オリンピックにお出かけされている皆様、現地でなにか一節という機会がありましたら、このフランス語版「最上川舟唄」でもいかがかしらん。それにしても、あの雨の中の開会式、本当にトレビアンだったけど、長かったですなぁ。

〇 鮭図の話
 東京芸大美術館にある高橋由一の「鮭」は明治10年頃に作成されたもので、30年に芸大が買い入れ、所蔵したものです。山形美術館が所蔵する「鮭」は、昭和39年に秋田県湯沢市で発見され、由一が滞在していた山形県北村山郡楯岡町(現・村山市)の旅館「伊勢屋」の帳場に掲げられていたことから「伊勢屋の鮭」と呼ばれていました。笠間日動美術館が所蔵する「鮭」は、ヤンマーディーゼル創業者が所有しているとされるも幻となっていたものが、平成12年に日動美術財団へ寄贈されたものです。
 製作年もこの順とみられているのですが、ちょっとミステリアス(?)なことに、年を経るごとに、鮭の身が削がれています。もし今後、新たな「鮭」が発見されることがあれば、裏側の身もなくなり骨が露わになっているかもしれません。なお、神奈川県立博物館には、頭ではなく尾から吊り下がる「鮭」図があります。
 また、「鮭」の類型作品として、山形県酒田市の画家で写真師である池田亀太郎が描いた「川鱒図」というのがあります。これも3点の絵が残されていて、うち2点は酒田市美術館に収蔵されています。高橋由一は明治17年10月5日から14日までの間、酒田に滞在しました。この時、亀太郎は22歳。由一は「絵描きになりたいなら、先ず写真術を習いなさい」と助言したそうです。
 亀太郎は東京に出て、写真術とクリーニングの技術を習得しました。洋画を学ぶために写真術を習得したのですが、それが本業となり、酒田港付近で池田写真館を開業しました。亀太郎は、撮影した写真を駆使して、主に酒田の名士の肖像画を描いたそうで、写真を商売敵とせず、むしろ相乗効果というか、うまく使いこなしていたようです。

〇 写実主義と印象派の話
 芸美の「鮭図」が描かれたのは1877年前後ですが、あのモネの「印象・日の出」は1873年に作成されています。日本では油彩による写実に傾倒している時に、かの地ではすでに印象派が勃興していたわけです。
 もともと武士であった高橋由一は、剣術修行のかたわら、狩野派の絵師に学んでおり、後に「蕃書調所」という江戸幕府によって設立された、西洋の書籍を解読し海外事情を調査する組織で学びました。その画学部門では西洋の文物を記録する人材が求められ、蒸気機関や近代的建築、武器などを分析し、戦争時には陣地、地形などをリアルにスケッチし製図していたとのこと。絵の得意な若者を集め西洋の遠近法に基づいた描写法などを学ばせたそうです。殖産興業のための近代化技術の一つとして、西洋絵画が学ばれていたのでした。
 一方、印象派は、フランスの王立絵画彫刻アカデミーが当時求めていた新古典主義的な技法やテーマ、出身や経歴というものに対抗したものです。印象派はまた、写実主義やバルビゾン派の延長でもあるのですが、由一の写実と決定的に違うのは、一瞬の色彩を描いていることです。時間の移り変り変りとともに色彩も変化するということを表現したわけです。モネに言わせると「すべては千変万化する、石でさえも」ということで、一方、由一は「画ハ物形ヲ写スノミナラズ併セテ物意ヲ写得スルガ故ニ、人ヲシテ感動セシメルニ足ル」と書き残していて、さて、ここで言う「物意」とは何か、という問題にはなりますが、これが「印象」と真逆のものなのか、はたまた同根のものなのか、難しいところです。
 ではなぜ「印象」と称するのか。「印象・日の出」という画題からきているのは間違いないのですが、最初の印象、見たままの新鮮さを大切にして描こうとしたのがこの印象派です。一瞬の間にあれこれの詳細まで見ることはできない。詳細を覚知するためには、経験や想像などが必要となり、脳が追いついたころには、最初の印象は消えてしまう。細部を丁寧に描写するよりも、色彩や光の印象をそのまま伝えようとしたのです。その瞬時性こそが印象派のキモなのです。
 そしてこの時代、画家は写真にも影響されました。写実派の画家は当時の写真技術では写しきれないものを描画し、印象派の画家は写真と競合しない表現を求めました。例えば当時、写真はモノクロのみで、色の表現ができませんでした。高橋由一は「油絵は写真に勝る」と言い切り、よりリアルな絵を描き、印象派の画家たちはこれまでにない色彩豊かな絵を描きました。まとめると印象派の画家たちは、アカデミーの伝統に対抗し、同時に写真にも対抗しながら、感性による絵を描こうとしたのです。
 写真界にもその後、「写実性」を追求する写真家と「瞬時性」を尊重する写真家が現れます。そうです、土門拳(1909〜1990)とアンリ・カルティエ=ブレッソン(1908〜2004)です。まさしく同時代の写真家で、土門拳―は山形県酒田の出身、ブレッソンはフランスの写真家です。正確には「絶対非演出の絶対スナップ」と「決定的瞬間」との日仏対決ということですが、ブレッソンの「決定的瞬間」について土門は、「本質を写し取ったものではない」と批判的に論じています。しかし「決定的瞬間」はまた「絶対非演出」でもあるわけで、すると「本質」とはなにかという「そもそも論」になってしまいます。先ほどの「物意」とは何かというのも同じです。
 そこで「そもそも」ですが、写真の場合は「写実性」も「瞬時性」も両方備えているわけで、つまりは写すまでは両方ともアリという、量子力学の重ね合わせの原理のような話になってしまうのではないかと。ついでに、返す刀で言及すれば、「写実性」と「瞬時性」、つまり「微細な観察」と「瞬間の印象」のどちらが「物意」を捉えることができるかというと、そうです、やはり量子力学で言う「位置」と「速度」の関係ではないかと。「位置」が決まれば「速度」が決まらず、「速度」が決まれば「位置」が決まらない、というあれです。まあ、わかるような、わからないような例え話ではありますが。
 とにかくその、「写実性」と「瞬時性」の論争というのは、同じリングの戦いではあっても猪木とアリの戦いというか(昭和の話ですみません)、いやその、ブレッソンにも土門にもそら恐ろしいくらいの論客がいて、モネにも高橋由一にも想像を絶するような論が交わされている中、にわか仕込みの私見を述べたかったわけではなく、ただ、パリ・オリンピックということで、「山形とフランス」つながりの話がしたかっただけです。まして、量子力学に首をつっこみたかったわけでもありません。

〇 写実技法の話
 さてさて、絵画の技法書の中で印象深いのが、松本キミ子著「三原色の絵の具箱」(ほるぷ出版)という3冊組の本です。絵が描けない子どもに接する中で考案した指導法で、三原色と白だけで色を作り、描きはじめの一点を決め、その部分からとなり、となりへと描きすすめていくものです。構図を決めてから輪郭を描き、色を塗るという描き方と、まったく逆で、画用紙が余れば切り、足りなければ貼り足して、最後に構図を決めます。例題も「もやし」とか「イカ」とか、かなり意表をつきます。
 実は三原色で色をつくろうとしても濁った色ばかりになり、下描きをせず、直接、絵の具で描くというのもかなり勇気がいるのですが、ここで注目すべきは、絵の大きさに画用紙を合わせていくということ。初心者が戸惑うのは、画用紙の大きさに絵を納めることなのだそうです。確かに画用紙の大きさに合せようとして、対象物のバランスがおかしくなったりします。例えば「はいだ画伯」こと、はいだしょうこさん。多分、これに悩んでいたのではないかと。いや、もしかして、枠などは全く意識していないのかもしれませんが。その画力というか破壊力は、皆が認めるところです。もし画伯の絵が出品されるのなら、個人的に購入を希望します。
 また、写実画であれば、実物大に描くことも有効です。写実の基本でもあるのではないかと。例えば鮭図は、実寸大に合せた縦長の140.0×46.5cm。モネにも「ラ・ジャポネーズ」という、ほぼ実物大で描いている人物画があります。モネの妻カミーユが日本の着物を着た姿を描いたもので、231.5x142cmの中に全身が描かれています。特に着物の柄などは、原寸大で描けば間違いないかと。
 さて、絵の評価というと、印象派以前では、「絵なのに実物のようだ」というのがその評価、少なくても写実画への評価でしたが、今や、そこに費やした時間や手間に驚嘆し、表現の仕方に感嘆するものとなっているわけで、絵がどれだけリアルかというのとは別の評価がなされている感じです。現代においては、単に立体を平面に写し取るだけであるなら、描画技術のみに頼る必要はなく、リアルを追求するのであれば、それはすなわち、どれだけ「描かれた絵」でなくなるかを求めることにもなり・・・おっ、なんか小面倒くさい美術評論のようになってしまっているぞ。
 とにかく、高橋由一の目指す写実は徹底していて、その絵にはサインも制作年もなく、それはすなわち、画面のサインなどは本物らしさを減殺してしまうからだそうです。写実画の究極型はやはり「描かれた絵」でなくすることのようですが、なんか絵画の存在価値と矛盾しているような。ちなみに、スーパーリアリズムで有名な上田薫さんの作品のサインは、ダイモテープに似せたもので、作品が世に知られた当時、かなりオシャレな表現でした。あのダイモテープには、一種の憧れ感すらあるのですが、これってやっぱり昭和の感覚なんですかね。

2021/07/28 09:00 (C) 最上義光歴史館
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