▼義光と「源氏物語」 名子喜久雄
義光と「源氏物語」
- 慶長三年卯月十九日興行の連歌から -
はじめに
一昨年の一月に歴史館主催の「最上義光についてのシンポジウム」が行われた。その折、義光の文事について一面を述べることが出来た。さらに、昨年には一月中旬から四週にわたって、義光の慶長三年卯月十九日に卷かれた連歌を講ずる催しが歴史館によって行なわれた。ここで、やや本格的に義光の古典文学についての教養を論ずることが出来たように思われた。
そこで、紙幅とのかかわりもあり、すべてを論ずることは不可能であるので、その折に明らかになった義光の連歌と「源氏物語」との関連を中心としで、義光の古典文学理解を解明してみたい。
本連歌成立の背景
その前に、この連歌の成立の背景を述べておきたい。この連歌のメンバーの多くはプロの連歌師であるが、その総帥とも言うべき人物が里村紹巴(じょうは)であった。義光と紹巴の交流がいつ始ったかは不明である。ただ、三年前の文禄四年(一五九五)に、両者は秀吉による秀次の追放・自害の影響を多大に蒙った。義光が愛娘駒姫を死なせたことは著名だが、紹巴も秀次にも近侍していたため、近江国三井寺に追放されてしまう。
紹巴は、慶長二年(一五九七)秋に許されて帰洛する。それを歓迎して行なわれた連歌の一つに義光は出席している。二人の縁の深さを思うべきであろう。
(ちなみにこの連歌懐紙の新出の写本が、このたび歴史館に収蔵されることになったのは、喜ばしいことである。)
発句と脇句に見る「源氏」の面影
その二人によって発句(ほっく)と脇句(わきく)が詠まれる。
1 折る花のあとや月見る
夏木立 義光
2 ※御篇のみとりに
明やすき山 紹巴
この連歌は旧暦四月十九日に行われたこと、また発句は、目前の景を詠むとの約束から、義光の発句の後半部の大意は、「夏の夜、青葉の木々を眺め遅い月の出を迎えた」などとなろう。ただ「折る花の」が何を指しているのか、問題は残る。「夏木立」となる前の春の光景とも解せるのだが、やや想像をたくましくすれば、約ーケ月前に行なわれた秀吉晩年の最大の風雅の行事、醍醐の花見を追想しての表現と考えたいのである。すなわち、義光の発句の大意は、「醍醐の花見の華やかさを味わった後、ここに夏の青葉の木立の中、夏の月を眺める席を設けることができた」となろうか。
これに紹巴は脇句を付ける。その大意は「(花の季節の後夏木立に囲まれた家で一夜月を眺めて夜を明かし)御簾の内から観察すると、夏の短夜はすでに東の山のはの空の色が変っている」となる。初夏、風雅の思いに身をまかせて夜明しをした貴人(貴女)の姿が描かれている。「夏木立」の語から考えると、「源氏物語・花散里」の世界を面影にした(古歌・物語を典拠とする時、はっきりとではなく、かすかに示すこと)ものと考えたい。
弘徽殿(こきでん)女御からの圧迫に耐えかねて源氏は須磨への退去を決意する。そのような、心あわただしい中、間奏曲のように、一夜の光源氏の夜歩きが行なわれる。「ささやかなる家の木立などよしばめるに、よく鳴る琴を」弾いていた門前に源氏はたたずむ。しかし案内を乞うても応答はなく、仕方なく源氏は愛人の一人花散里の許へむかうこととなる。その邸の風情は、
二十日の月さし出るほどに、いと
ど木高き影ども木暗く見えわたりて
との状況であった。
直接的に「夏木立」の語はないが、「初夏、木影から月を眺める」との義光の句を、紹巴は「源氏」の世界にとりなして、その貴婦人たちの夜明しの様としたのであった。言い換えれば、紹巴の解釈を導く「源氏物語」との共通性が義光の発句に、顕らかな形ではないが、内在していたことになろうか。
義光の「源氏物語」への傾倒
義光の「源氏」への傾倒は、他にも見られる。以下の如き付け合いがある。
20 おなじはちすとなを
ちざらばや 紹由
21 あひおもふこころはさらに
あさからず 喜吽
22 ひめおきつつも
ゆるす法の師 紹巴
23 つねにしもかよひ
なれたる古寺に 義光
20は、仏教の教理に立って、「共に極楽往生を求める」ことが大意である。それを21で喜吽は、恋にとりなして、「相思う男女の契りの言葉」としている。※喜吽(きうん)は義光の家臣で、この連歌で山形側の人物として、義光の外に確認できる唯一の人物。
22は、それを受けている。「法の師」とあって、一見すると仏教の立場からの句と思われるが、おそらく、以下の「源氏物語・椎本(しいのもと)」の一部分を面影としているのであろぅ。
「宇治十帖」の男主人公薫は、自己の出生に疑念を抱く内省的な人物として描かれる。薫は、源氏に圧倒された不遇な生涯を送った宇治の八官と、仏道への関心を通じて知り合つた。八宮は、自分の死の近きを悟り、仏道専念のほだしとなっていた二人の愛娘を、(妻は次女「中君」を生んですぐに没)自分を「法の師」として慕っていた薫に委ねることにする。具体的には、薫が、その中の一人を妻としてくれることを望むこ
ととなる.。ー(1)
八宮は、その後、常々通って心を澄ませていた山寺に登り、死を迎えるのである。―(2)
紹巴は、21の喜吽の句から、「八宮・薫」・「薫・大宮」の「あひおもふこころ」を感じとり、「源氏・椎本」の巻に拠った句(具体的には(1)までの部分を拠り所とする)を付けたことになる。
義光の句は、さらに(2)までの部分に立っていることは改めて説くまでもなかろう。すなわち、義光は、紹巴が「源氏・椎本」に拠って作句したことを即座に理会して同じく「源氏」に立脚した23を創造したのであった。
古典世界への通曉のあかし
このような例は、この部分に留まらない。以下の付け合いにも、「源氏」は影響を与えていると考える。
83 さき立つを道のしるべの
雪の暮 景敏
84 すみかのかたは
駒いばふなり 玄彷
85 程もなく賀茂のまつりや
過ぎぬらん 義光
86 いまもみそぎに
思ふそのかみ 昌叱
84は、「83の『雪の夕暮の中、先立った旅人の足跡を道しるべ』として進む辛い旅を一行の中の馬も、故郷の方をむいて、つい辛さのためにいななく」ほどの大意だが、「文選・古詩」の「胡馬(こば)は寒風に嘶(いなな)き越鳥(えっちょう)は南枝に巣くふ」に依っている。遠く離れた故郷への思いを述べた羇旅(きりょ)の句である。
85は、「おそらく都の中で邸内に世俗を離れて生きる人物(貴女)が、かつての家の近くの通りを人々が馬を乗って通るのをかすかに聞いた体」ととらえて、「馬が多くパレードを行なう、賀茂祭ももうじき終ってしまうか」と嘆じた体の作句となっている。
86は、さらにその方向性にピントが合って、その貴女(皇族)が、自分がかつて、賀茂神社に朝廷より遣される斎院(さいいん)であったことを賀茂祭の御禊(おんはらえ)の日に当つて回想する体の句となっている。
84をかつての住いの紫野の斎院の近くの馬の嘶(いなな)きととらえた85の義光の句の世界を、86が会得して作句したこととなる。
源氏物語に特定しなくとも良いのかもしれないが(例えば、大斎院選子内親王や、「狭衣物語」の源氏宮のことが面影と考えるのも許されよう。しかし、いずれにせよ、義光の古典世界への通暁のあかしとなろう)「朝顔」の女主人公たる朝顔の斎院を思い起こさせるものがある。
朝顔は、斎院を退いた後葵上没後の源氏の正妻の候補となる。源氏も文を送るが朝顔は結婚せずに生きて行く。こんな人物の面影による付け合いであろう。
以上、様々に関わりのあり方は異なるが、いずれも「源氏」が関与した句作・付け合いである。
錐承された好文の性質
やや、検討を急いだが、こうして見ると、義光の「源氏」理解の並々ならぬことがわかって来よう。紹巴と深い交流を結びえた天正十八年(一五九〇)以前の山形の地を離れえなかった時の師は、誰か、不明なのが残念である。
なお、このような義光の好文の姿は後継者の家親にも継承されている。最上義光歴史館蔵の「三部抄」奥書からは、慶長元年(一五九六)に紹巴筆写の定家著「詠歌大概」を送られている。その奥書に「最上之本所義光御三男家親、頃風雅御執心之由及承」とある。義光の好文の性質は継承されていたのであった。
(注)※の句「山形市史」は「古簾」であるが、「古」は「御」の誤写として考察を進めた。
■執筆:名子喜久雄(山形大学教育学部助教授)「歴史館だより5」より
2006/03/31 09:00:最上義光歴史館
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