▼館長の写真日記 令和6年6月6日付け
 松尾芭蕉「おくの細道」でも知られている山形市山寺の立石寺には、最上義光とその家臣10人の位牌を納めた厨子を安置する「御霊屋(おたまや)」があります。義光公の没後すぐに建立された県内最古級の御霊屋なのですが、何度か改修がなされているものの損傷が激しく、降雪時には倒壊の危険性も指摘されている状態です。この度、この御霊屋の修繕に向けた機運を高めたいと、郷土史研究会主催の研修会が開催されます。
 山寺と最上家とは代々深い関係があり、初代山形城主となる斯波兼頼が延文元年(正平11年、1356)に羽州管領として入部し、根本中堂を再建したことからはじまります。実はこれ、山寺が山形城の鬼門鎮護の位置にあることに起因するといいます。(伊藤清郎(山形大学教育学部教授・文学博士)/歴史館だより10)後々、最上義俊公(最上義光の孫)が元和7年(1622)に、それまで城内にあった熊野神社を山形城の鬼門(北東方向)にあたる現在地(六日町)に遷座しました。
 鬼門というのは艮(うしとら)つまり北東の方角です。鬼が出入りし、災いがやってくる方角と考えられています。都や幕府の鬼門に当たる方角には、鬼門除けとして寺社が多く建てられました。古くは奈良時代の平城京において鬼門の方角に東大寺が建立され、都市を守る魔除けとされました。京の平安京においては比叡山延暦寺が、江戸においては東叡山寛永寺が鬼門除けの役割を果たしているそうです。山寺の創建は平安時代初期(9世紀)に遡ることから、山形城においては、すでにある寺社を鬼門除けとした形です。
 また、鬼門の反対側となる坤(ひつじさる)つまり南西の方角を裏鬼門といいます。裏鬼門は、複数ある鬼の通り道の中でも最後に鬼が出ていく場所とされ不吉な方角となります。京都の裏鬼門にあたる位置には、石清水八幡宮が配置されています。逆に、巽(たつみ)と乾(いぬい)つまり東南と西北は吉の方向で、天守や城主の住む館を建てました。
 城郭の鬼門除けは、桃山時代から見られるそうです。その方法は、寺社や祠を置いたり、不開門(あかずのもん)を築いたり、堀や石垣の一部を欠落させたりなどです。さらに角を欠落させる方法には二種類あり、角を斜めに欠き取ってしまう方法と、入隅とよばれる隅を内側に直角に入り込ませる方法があるそうです。
 この鬼門除けで有名なのが、京都御苑の御所の北東の「猿が辻」と名付けられている角塀です。京都御所の鬼門である北東方向には比叡山延暦寺があり、比叡山の滋賀県側の麓に、延暦寺の鎮守社である日吉大社があります。この日吉大社の召使が「猿」で、京都御所に遣わされた猿の像が、その角塀の軒下にあるため「猿が辻」というわけです。
 烏帽子をかぶり御幣を持つこの猿は、鬼門除けの役割であるにもかかわらず、夜な夜な辺りをうろついては通行人にいたずらをするため、金網で囲って封じ込めたといわれています。日吉大社の神の使いは「神猿(まさる)」といわれ、まさる=魔が去るに通じ、縁起が良いとされます。また、鬼門とは反対の方角が申(さる)であることから、猿の像を鬼門除けとしてまつるところが他所にもあります。
 さて、ご当地の山寺では、わざわざ猿の像を置くまでもなく本物の猿が少なからず生息しています。その猿による果樹や畑の被害も年々増えている状態です。電気柵などの対策も講じてはいるのですが、それを容易く乗り越える猿もおり、「作る端から被害にあい、もう農業をやめたい」という農家の方の声すら耳にします。猿を鬼門除けとして尊重すべきか悩ましいところではありますが、ここで孔子の言葉でも。「務民乃義、敬鬼神而遠之〜民としてやるべきことに努め、鬼神には敬意を払いながらも遠ざけよ」ということで、鬼門除けよりもまずは生活優先ということでしょうか。


山寺全景(山寺芭蕉記念館提供)


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