▼「河北町谷地城跡の発掘調査」 天本昌希
河北町谷地城跡の発掘調査
【はじめに】
現在の河北町谷地地区に所在した谷地城は、白鳥十郎長久の居城である。白鳥氏は現在の村山市西部に本拠をもつ国人で、その出自については謎が多い。長久の頃、天正二年(1574)の「最上の乱」における伊達氏と最上氏の和解を仲介、中央政界には織田信長に名馬を送るなど、巧みな外交術で頭角を表す。これに危機感を覚えた最上義光は、天正十二(1584)年に谷地城へ侵攻、白鳥氏は滅亡となる。
このときのエピソードとして、義光は病気と称して山形城に長久を呼び出し、彼を謀殺。そのまま3,000の兵を率いて谷地城を落としたと、軍記物では語られる。この逸話が後世の様々な物語で語られる義光の狡猜で残忍な人物としてのイメージのもととなり、長久の返り血を浴びたとされる「血染めの桜」伝説につながっている。しかし、実際にこのような謀殺劇があったことを示す史料は軍記物以外、残されていない。ドラマチックな物語を抜きに当時の状況としていえることは、白鳥長久が外交を駆使して義光の地位を脅かすまでの存在となり、討たれたという結果である。
ちなみに大石田町次年子には、白鳥長久の墓と伝えられる塚があり、過去に発掘調査がなされている。結果、大腿骨に大きな傷をもつ40代男性の人骨が出土している。しかし、それが長久本人かどうかまでは定かではない。
この長久が築いたとされる谷地城は、文献上、築城の時期が明らかではなく、最上侵攻の前年1583年以前とされるのみ。最上領有後は、斎藤伊予守が4,000石で城主となり、最上方の支城のひとつとして機能した。慶長五年(1600)の上杉方との出羽合戦の際、一度は上杉方に奪われ、それを再び最上方が奪還するという拠点争奪戦の舞台として登場する。その際の様子を伝える記述として、「七日の間、城けんごにもち候へ共」や「二の丸迄敵押込み申し候所押返し」など、激しい籠城戦となったことが窺える。最後は元和八年(1622)の最上家の改易と共に廃城となっている。在りし日の谷地城の姿を伝える絵図はなく、廃城から67年が経過した元禄二年(1689)の「谷地本郷絵図」に現在の三社宮付近が「古城跡」と記されるのみである。
史料が限られる状況において、発掘調査成果は重要な情報源となる。遺跡としての谷地城跡は、『山形県中世城館遺跡調査報告書』第2集に掲載され、現在の河北町谷地地区の市街地全域に渡る広大な遺跡として知られている。この遺跡範囲内に立地する河北町役場を建て替えることとなったため、建設予定地の発掘調査が令和元年五月から八月までの期間で実施された。これは谷地城跡では初めての大規模な発掘調査であり、その成果は既に発掘調査報告書として山形県埋蔵文化財センターから刊行されている。ここではその成果についてまとめる。
【特徴的な建築方法の発見】
発見された主なものは、500基を越える柱穴と溝跡である。柱穴はいくつかがセットになって建物を構成し、溝跡は建物群を区画するためのものと考えられる。当時の建物は、掘った穴に柱を埋めて建てる掘立柱建物が主流である。柱材は建替えの際に抜き取られたり、腐ってなくなってしまったりする。そのため、遺跡には柱穴だけが残されるのが常である。今回発見された柱穴で特徴的なのは、多くの柱穴の底面に沈下防止のため、枝や廃材などが敷かれていたことである(図1)。谷地城の立地は寒河江川扇状地の末端部にあたる。湧水も多い軟弱地盤のため、このような方法をとったのではないかと考えている。同じ目的で、柱穴の底に板や、石を敷くという事例はあっても、切りっぱなしの枝や廃材を敷く事例は、全国をみてもほかに探すことが難しい。より低コストの建築方法であったと思われる。しかし、類例は思いのほか近く、山形城三の丸跡の第十四次調査において発見された(図2)。
第14次調査の柱穴
図1 谷地城跡の柱穴
図2 山形城三の丸跡
この調査地点は広大な山形城三の丸でも西端に位置し、馬見ヶ崎川扇状地の端部にあたる。立地環境としては今回の谷地城調査区と類似している。谷地を占領した義光は、当地の鋳物師たちを山形城下に呼び寄せたとされるが、同時に大工たちも連れて行き、山形城内の整備にこの方法を持ち込んだと解釈できるかもしれない。山形城三の丸では現在のところ確認できているのはこの一基のみのため、付近での調査事例の増加に期待したい。
【谷地城の姿について】
これらの柱穴を区画する溝は、調査区の軸に沿って縦横に発見されており、大小の規模がみられる。いくつがセットになって区画をなしていたと考えられ、その区画は一部が重なっていることから、古い区画を埋めて、新しいものをつくったと考えられる。
では、この古い区画は、いつごろのものか。時期判断の材料となる陶磁器の出土が少ないため難しいが、溝の底面から出土した漆器などを炭素年代測定にかけたところ、十五世紀前半から半ばという結果が出ている。遺跡全体でみれば、これと同時期にあたる古瀬戸後期の陶磁器片を一定数得ていることからも、この測定結果は裏付けられる。よって、古い区画は十五世紀半ば頃から機能し、新しい区画の建設に伴い埋め戻されたと考える。現在の谷地地区の開発は、白鳥長久か、あるいはその前代の頃にはじまったとされ、十ハ世紀中頃からというのが従来の説である。これに対して今回の調査成果は、それよりも百年近く前には既に、区画された屋敷地があったことを示すものとなっている。
現在の谷地地区は、南北に走る県道25号などを中心に20度ほど東に傾いた軸で市街地が形成されている。今回の調査で発見された区画溝をみると、後述する新しい時期のものも含めても、その方向は現在のものと同じ軸の傾きでつくられている。これは十五世紀の中頃に谷地の開発がはじまってから現在に至るまで、土地利用が変わり、区画の変化はあったとしても、基幹的な町割りは変わっていないことを示すものである。
次に新しい区画をみると、大きいもので、幅4m、深さは1m弱あり、調査区内を東西方向にまっすぐ80m以上展開し、東側は更に調査区外へ延長し、西側は調査区の端で直角に折れて調査区外へのびている。この溝の底面からは十六世紀中頃の陶磁器片が、溝の埋まりきった上面からは十七世紀初頭のものが得られており、この区画溝の構築時期と廃絶時期を示しているものと考えられる。この年代観は、文献上、推定されてきた谷地城の存続期間と合致するものである。ではこの溝は谷地城に関連するものなのだろうか。
谷地城の姿をめぐっては、戦前からの研究があり、本丸に対して二の丸堀が部分的にめぐるものや、山形城のように全体を三重に囲むものなどが提示されている。今回の調査区は、どちらの復元案でも、本丸西側の二の丸堀にあたる。そのため調査前は南北方向にめぐる堀跡の発見が予想されていた。
しかし、今回の調査で得られたものは、堀とするには規模の小さい溝跡である。考古学上、溝跡と堀跡の違いについて、明確な定義がなされているわけではないが、一般的に防御施設である堀というには、前述の規模でその機能を担えるのかという疑問が湧く。山形城と比較するには、築城の時期も城主の地位も異なるが、筆者が担当した山形城三の丸跡第十次調査において発見された三の丸の堀跡は、幅12m以上、現地表からの深さは5mを越えている。また、これが本丸を守る防御施設であるならば、東側の本丸を守るため、南北方向になければ防御の用をなさないだろう。しかし、発見されたのは本丸に向かって一直線に80m以上のびるものである。よって、ここで発見された溝跡は、谷地城の主たる防御施設としての堀跡とは考えられない。しかし、これらは廃城の時期に埋め戻されているため、谷地城本体に付随して補助的な防御機能を担っていたものとも考えられる。よって、現在のところは城内、あるいは城外に隣接して築かれた家臣団の屋敷地を区画するものと推測しておきたい。
谷地城の二の丸については、冒頭でふれた出羽合戦における争奪戦の記録からも、その存在は認められる。しかし、今回の調査成果によって、これまで推測されてきた谷地城の二の丸の姿とは異なるものを想定しなければならないだろう。
【まとめ】
このように発掘調査は、机上の調査では得られなかった結果を導くことがある。文書には残されていない客観的な情報を得ることができるのは、発掘調査の醍醐味といえよう。しかし、それはすべてを明らかにしてくれるわけではない。文献調査がもたらす情報に比べれば、発掘調査が伝えることはあまりにも限定的である。
発掘調査と文献調査は、両者どちらかを選ぶというものではなく、お互いの弱点を補完しあうことができる関係にある。両者の成果を統合することで、より立体的な歴史像が復元されることを期待したい。
■執筆:天本昌希(山形県埋蔵文化財センター主任調査研究員)「歴史館だより28」より
→画像[大 中 小]
2021/10/01 10:00:最上義光歴史館
→HOMEへ
(C)最上義光歴史館