▼直江兼続の最上侵攻
直江兼続の最上侵攻
慶長5年(1600)9月、直江兼続は米沢から最上領に侵攻し、畑谷城攻略を経て山形城西方の長谷堂城を囲んだ。上杉勢は庄内からも侵攻した。長谷堂合戦は膠着状態となるが、関ヶ原の戦果が伝わるや、兼続率いる上杉勢は一部を除いて撤退した。
同年六月、徳川家康は上洛要請を拒んで会津で領国経営に専念していた上杉景勝に向けて出兵した。このとき会津領国に対する包囲網が構築された。このような中で上杉氏は旧領越後の春日山に入った堀秀治に向けて越後一揆を扇動した。また、白石城を奪取して上杉領となった旧領を窺う伊達政宗を伊達・信夫方面に迎撃した。一方佐竹氏とは明確に手を結び、相馬氏や岩城氏らとも目立った戦闘はなかった。相馬には使者が送られている。後述のように越後北部(下越)の溝口・村上両氏とも交渉で戦闘の回避が意図されていたが、両氏は越後一揆の鎮圧に動いた。そして、最上義光を山形に攻めたのである。
さて、誉田慶恩氏は兼続の最上侵攻の理由として@最上氏が伊達氏に比べ戦力的に弱小で攻めやすいこと、A家康の命によって北奥羽の諸士を率いて上杉領へ攻め込もうとしていたこと、B上杉領における会津と庄内を結合して上杉氏の軍備の弱点を補おうとしたことなどを挙げ、特にBを強調した(『奥羽の驍将―最上義光―』人物往来社、一九六七年)。
傾聴すべき見解であるが、会津と庄内の一体化は庄内と連続する越後の下越地方から実現することもできたと思われる。そこは旧領である。残存した旧勢力とともに上杉家臣団による軍勢が動員されれば、軍事作戦は最上攻めよりも優位に展開できたのではなかろうか。また、同じく飛び地の状態であった佐渡との一体性も確保できる。
ところが兼続は、越後一揆は秀治に向け、下越の村上・溝口両氏を攻撃しないように指示している(八月四日付兼続書状。『新潟県史 史料編五 中世三』所収三二二九号文書。以下、同書からの引用は文書番号のみ記す)。現実とは異なり交渉で戦闘を回避したと認識していた(三二二八号)。つまり兼続には下越掌握による庄内の連結という構想はなかった。領国の一体化を目指すにしても、最上領を攻める固有の理由があったのではあるまいか。
前掲八月四日付書状(三二二九号)で兼続は義光と政宗を討つのは容易いが、家康の出方を見極めるまで動けないと記している。既に戦いに及んでいた政宗とともに、いまだ軍事行動を起こしていない義光が挙げられている。兼続は義光と政宗を東北における敵対勢力として当初から認識していた。そして、義光や政宗に対する攻撃は家康の動向に規定されていた。また、九月三日付の兼続書状(『山形縣史』一)では、景勝の関東出兵に休戦した伊達氏の同陣の可能性を探っているが、政宗との戦闘回避によって初めて景勝の家康との軍事対決が可能になるのであった。そして、ここでも義光の動向は政宗と一体的に捉えられている。
九月には義光・政宗の動向が家康への攻撃を規制しており、義光・政宗の動向が家康の背後への上杉氏の攻撃を防いだとする指摘を裏付けるが、基本的な兼続の視線は関東と東北の問題に向けられている。家康の駿府入りで関東への気遣いがなくなったという認識が上杉家中にある(『山形縣史』一所収九月一八日付上泉泰重書状写)が、上杉氏の活動が関東までを対象としていたことが分かる。会津は関東・東北支配の要地であった。兼続の行動はこの全国支配の方針に基づく、すぐれて政治的なものと考えられる。
家康との衝突が回避されつつある八月、反転攻勢として義光攻撃の準備が進められる一方で義光・政宗と外交交渉がもたれたとみられる。政宗のように休戦が成立すると、前述のように一転家康攻撃への動員が模索された。上杉氏の課題は東北の家康派の解体であったと考えられる。攻撃準備は圧力とみられるが、九月三日付書状にしめされたように交渉破綻を機に侵攻が実行された。それはあくまで家康派の解体・抑え込みが目的であったと考える。最上氏を滅ぼす必要はなく、一定の打撃を与えられれば十分だった。しかし、それは成功しなかったのだが。
■執筆:阿部哲人(米沢市上杉博物館学芸員)「館だより15」より
2008/08/17 17:19:最上義光歴史館
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