▼最上家の茶の湯
 最上家の茶の湯

 「茶人にあらずんば戦国武将にあらず」。これは拙者架蔵書の帯にある宣伝文句だ。随分と大仰な物言いだが、当時の状況からすれば概ね首肯できる。すなわち、天下人″信長・秀吉・家康・秀忠による「御茶湯御政道(おんちゃのゆごせいどう)」「数奇屋御成(すきやおなり)」などの施策により、多くの武将が深浅あれど茶の湯に関心を持ったことは想像に難くない。事実、彼らの多くが天下一宗匠の千利休や古田織部(ふるたおりべ)の門を叩いている。
 周知の如く屈指の連歌巧者であった義光。その子家親(いえちか)は家康・秀忠の側近だった。よって、茶の湯の場合も史料僅少と言えども例外ではなかったと思料する。以下、標記について管見の限りだが愚考を述べてみたい。
 先ずは、山形城三の丸跡双葉町・城南町遺跡の出土品に注目。黒織部市松文沓形茶碗(くろおりべいちまつもんくつがたちゃわん)・白天目茶碗(しろてんもくちゃわん)・志野茶碗(しのちゃわん)などが出土している。拙者は茶道執心者としてかつてそれらの品々を興味深く実査したが、個々の作風や関連事項などについては紙面の都合上割愛する。ただ、少なくとも当時の最上家臣に茶の湯を嗜む武人がいたことが明らかになった。  
 次に家親所蔵の茶入が挙げられる。元和三年(一六一七)家親死去、同五年源五郎家信(げんごろういえのぶ)が家督相続。その時に、父家親の遺物として「唐肩衝(からかたつき)」茶入を幕府に献上している(『最上家譜』『同家伝覚書』)。これは中国からの舶載の焼物で、わが国では唐物と呼ばれ珍重された。肩衝とは茶入の形容である。
 後に「最上肩衝(もがみかたつき)」と銘された本品は、名物として下賜・献上などを繰返し流転を重ねていったと思われる。現在は存否不明。妄想だが別銘で存在か?
 ちなみに、「天下三肩衝(てんかさんかたつき)」という名物茶器がある。「初花(はつはな)」「楢柴(ならしば)」「新田(にった)」と銘する茶入で、そのすべてが権力者の秀吉から家康に渡っている。もとより、名物茶器の蒐集は足利義政(あしかがよしまさ)が先行し知られているが(東山御物/ひがしやまぎょもつ)、度重なる戦乱によって散逸した茶器その他を「名物狩り」をして再蒐集し、茶之湯政道に利用したのが織田信長である。その政治手法を引き継いだのが秀吉であり、また家康であった。彼らは名物茶器を使って事あるごとに茶会を催している。このことにより、大名家をはじめ武家・公家・豪商などの名家の間に茶の湯が盛行した。茶の湯は当時のコミュニケーション・ツールの最たる文化芸道であった。
 こうした事例から類推すると、冒頭に述べたように最上家においても社交的教養の域を出ないにせよ茶の湯には無関心でいられなかったに相違ない。さらに言うと、義光の連歌における連衆が明らかになっているが、その中に茶の湯を嗜む人物が確かにいる。例えば、連歌の師里村紹巴(さとむらじょうは)は堺の豪商で信長・秀吉の茶頭(さどう)だった津田宗及(つだそうぎゅう)と親交があったし、細川幽斎(ほそかわゆうさい/玄旨 げんし)や大納言日野輝資(だいなごんひのてるすけ)、それに豊臣の五奉行前田玄以(まえだげんい)や黒田如水(くろだじょすい)などである。堺の豪商灰屋承由(はいやじょうゆう)も茶人だ。
 さて、ここにきて残念だが今回の紙面は間もなく尽きるようである。秀吉・家康と義光との茶の湯をめぐる直接史料は今のところ見当たらない。だが、演繹的に考えれば蓋然性はけっこう高いと見られる。彼ら天下人の義光に対する茶室でのおもてなし″がきっとあったものと推定される。これは永年茶の道を歩んできた拙者の肌感覚とでも言っておこう。

■執筆:渋谷洛雲斎「歴史館だより30/研究余滴22」より


2023/12/15 09:00:最上義光歴史館

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