▼【2】 奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか
奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか【2】

2.奥羽永慶軍記に見る騎馬揃の状況について

@奥羽永慶軍記(以下「軍記」という。)巻37に最上義光、騎馬揃の事が記されている。

 最上義光、同年(慶長十年のこと)江戸在勤に言上して、駿河守に国を譲り、庄内鶴ヶ岡に隠居の身とぞ成られける。同十一年冬、義光一門・郎等を鶴ヶ岡に召れ、「扨も近年は諸国静謐にて、諸人遊山栄輝(えいよう)のみに誇ぬれば、家中の武道取失ふ事も有べし。来正月は最上郡天童の野に於て騎馬を揃へて見物せん。其用意せよ。」といはれければ、「相心得候。」と一々相触けり。是を聞て、山形・鶴ヶ岡の旗本はいふに及ばず、温泉・藤島・櫛川(引)・亀崎・由利・赤尾津・上の山・長谷堂・白岩・谷地・寒河江・鮭登・小国・清水・延沢・楯岡・東根等の与力・陪臣に至るまで、馬・武具・母衣・旗指物・馬印などとて爰(ここ)を晴と出立(いでたち)ぬ。同十二年正月十一日義光申されけるは、「秋田の境赤尾津の与力二百十一騎、鶴ヶ岡百五十騎・亀崎百騎・寒河江三十騎は諸境の押なれば、今度の騎馬揃に出(いず)べからず重て一見すべし。」と、境毎に相触れ、用心稠しくせらる。
 馬揃は正月十五日と定めらるゝに、此事・越後・米沢・仙台・山北の境を隔し所へ聞えければ、最上騎馬揃をするよし委しく見て参れと、目付の者を遺すに、皆物に紛れて在々所々にぞ充満(みちみち)ける。其外隣郡より来り見る者も貴賤群集せり。既に今日出んと触を待つ所に、義光昨日山形に来り給ひて、今度の役人安食大和守を召れ、騎馬帳を見給へば、都合三千七百廿騎ぞ有ける。義光、「此騎馬は皆々山形に相詰けるか。」と問ひ給ふ。安食承(うけたまわる)に「一騎も残らず相詰候。」と申す。義光聞給ひて、「よしよし天童に出て汰(揃)ゆるに及ばす、騎馬帳を見ても同前なり。皆々帰すべし。」といはれければ、爰を晴と出立(いでたち)し、者ども、己々が宿所にぞ帰りける。所々より来る見物衆も皆々帰りけり。義光父子三人、其外一門も仮屋夥しく、帳幕を打せけるが、空くぞやみにける。其心底奥深しと感じける者も多かりけり。
■執筆:矢野光夫

【参考文献】
@「奥羽永慶軍記」 P.943〜944復刻 今村義孝 校注 2005.2.20(有)無明舎出版発行


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2021/04/11 09:53:最上義光歴史館

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