▼「最上義光公が通った羽黒古道」 矢野光夫
最上義光公が通った羽黒古道

 慶長5(1600)年9月、出羽の長谷堂合戦の論功により、最上義光公は徳川家康から25万石から57万石に加封され大大名となった。義光公は戦国期に荒廃した神社仏閣の造営などに力を入れ、領内を穏やかで安定したものにするため寺社を優遇したと考えられる。
※1『羽州羽黒山中興覚書』によると、羽黒山の御堂(現三山合祭殿)や五重塔の修造、奥の院荒澤寺御影堂、荒澤不動堂、月山本宮などの造営が成された。なかでも羽黒御堂の修造は、慶長10(1605)年にはじまり、翌年の6月に行われた落慶法要時の様子が次のように記述されている。

「慶長十一(1606)年六月、最上出羽守義光公、當山御参詣有。供ニ局・上=A上下數百人、武士大勢供奉。麓野路より荒澤江登山。出羽奥州無双之馬ニテ両國ト云フ秘蔵之名馬を被引。局・上<n麓より羽黒江被登。此日晴天成ル所ニ義光公荒澤江上着之刻より天氣俄に變り大雨切に降。依之。羽黒より金(鐘)ヶ岡通、八(鉢)子村より清川村江下向有。上臈供奉之乗物等、恠有ニて漸々下着也。山形御歸城三日之内ニ、荒澤より羽黒江被引名馬落死。」とある。

 この金(鐘)ヶ岡通とは何処なのか。※2『三山雅集』に「そのかみ(阿久谷の上という意か)当山の大鐘鋳成シける旧跡にてかく名付け侍るや鐘鋳谷といふ処も爰に残る侍る。」とある。羽黒本社の図(P57)の下方に描かれている皇野と羽黒本社との間、阿久谷の上に「金ヶ岡」と描かれている。
 この他、羽黒山絵図(文政十三年庚寅年初秋写之)や湯殿月山羽黒三山一枚絵図などにも同様に描かれている。

 このように、この古道は、月山から流れる立谷川左岸にある鉢子集落から皇野を経て、羽黒山頂へ続く約3kmの道である。皇野には盛土状の地形を有する開山塚と呼ばれる所があり、蜂子皇子の墓と伝えられ、この一帯を元羽黒という。室町時代まで五百余の坊舎があり、手向の街並みが形成される以前は羽黒山への表参道であったといわれている。

 また、※3『義経記』には義経の奥州下りの途次、弁慶ひとりが代理として羽黒山参詣の折、あげなみ山を通り、清川の五所王子(現 御諸皇子神社)で義経一行と合流する時に通った道といわれている。近年、地域住民によって整備され「羽黒古道トレッキングコース」として利活用されているのがこの古道である。



■執筆:矢野光夫

参考文献
※1 『羽州羽黒山中興覚書』P9〜10 経堂院精海著 戸川安章校注 昭和16年8月10日発行
※2 『三山雅集』P57、P82〜83 経堂院往持 東水編纂 昭和49年8月25日 (株)東北出版企画発行
※3 『義経記2』P250 佐藤謙三、小林弘邦訳者 1982年9月1日 (株)平凡社発行

2019/10/01 14:06:最上義光歴史館

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