▼「山形城の天守閣について」 吉田 歓
山形城の天守閣について                        

  一 謎の天守閣図面
 鶴岡市郷土資料館には小林家史料という史料群が所蔵されているが、その中に「御殿守之たてぢわり」という謎の天守閣図面(小林家史料一八一)がある。この図面は縦約三六八p、横約三三一pという、とても大きな図面である。そこに石垣上に聳える五層の大天守閣が描かれている。このように大きな図面であるため、簡単に写真を撮影して紹介することが難しいので、トレース図を作製した(図1)。さて「御殿守」は天守のこと、「たてぢわり」は立面図のことで、本図は天守の立断面図を描いているが、残念ながらどの城の天守なのかは不明である。



 小林家史料の小林家とは庄内藩酒井家に仕えていた大工の家であった。とすると本図も鶴岡城の天守の設計図と考えられそうであるが、鶴岡城には天守は造られなかった。実は本図は小林家史料のうちの小澤若狭守光祐に関わる史料群に含まれている。それでは小澤光祐とは何者なのか。やはり庄内藩に関係すると考えられそうであるが、実は最上義光のもとでさまざまな建築や修理に携わっていたことが確認される。さらに『最上義光分限帳』(『山形市史』史料編1)にも光祐は最上家家臣の中に連なり、「弐百石 大工頭 若狭」と見え、義光に重用されていたことがわかる。
 本図が義光に仕えていた大工頭に関わるものとすると、山形城の天守閣の設計図の可能性が出てくる。しかし、実際には山形城にも天守が建てられることはなく、さらに義光自身が建てる必要はないと判断したことが伝えられている。『羽源記』(『山形市史』史料編1)に次のようなエピソードが描かれている。慶長十五年(一六一〇)春、義光は家臣たちから天守の造営などを進言されたが、百姓の負担になるから天守の造営は無用であると却下したという。関ヶ原の戦いの後、五十七万石の大大名となり、また全国的にも築城ブームであったから、義光も他の大名たちと同様に山形城を一新し、大大名にふさわしい大天守閣を建設しても不思議ではない状況であった。それにも関わらず天守は無用と判断したのである。では本図は何を意味するのか。
  
  二 天守閣図面の性格
 何城のものかを示すはずの貼紙が本図裏面にあり、「□□城繪圖」と記されている。しかし、肝心の「城」の上半分から上部がちぎれていて、城の名前がわからなくなっている。恐らく〇〇城と記されていたと思われるが、現状では不明とせざるを得ない。他に、図中に二箇所、文字が記されていて、一つは石垣を説明したもの、もう一つは天守の立断面図は大体このようなものであると説明したものである。
 石垣と天守の立面図の説明箇所を翻刻すると次のようになる。

(石垣の説明)
石かきたかさ五間、
此つほかす七拾つほ、かたおもて也、
四方合弐百八拾つほか、

(天守の立面図の説明)
御殿守之たてぢわり、大かたこれ也、
但すみ正になくてならは、世上の目、木工の
むねにあるへし、角のかたの柱のつよミ
ひき物つかいに、なほ以大工人ゝの
口伝の大事あるべし、其心を以一筆如件、
 慶長拾年       櫻井越後守
     十二月吉日     吉久(花押)

 天守の立面図の説明に「慶長拾年十二月吉日 櫻井越後守吉久」とあり、本図を櫻井吉久が作製したことがわかる。一方、「棚の図」(小林家史料四〇)も、慶長十八年(一六一三)三月吉日、吉久から小澤若狭守殿に差し出されたことが記されている。これによって天守閣図面も吉久から小澤光祐に送られたことが推測できる。
 


また、五層目の屋根には文様が描き込まれている。菊紋と桐紋があしらわれているが、いずれも最上家も使っていたものである。本来は天皇家の紋であるが、『最上家譜』(『山形市史』史料編1)によると、勅許紋とある。または最上家は足利一門であることから、その繋がりによるとも考えられる。そして注目されるのは、入母屋の頂部、拝の部分の丸瓦に「山」の一文字が描かれていることである(図1-2のB)。普通、丸瓦には巴文や家紋が使われることが多いが、「山」一文字である。実は「山」文字瓦は山形城でも見つかっている。しかも書体は独特で基本的に共通することがわかる。ではなぜ「山」なのか。義光の書状の中には自ら「山出羽守」のように記したものがある。たぶん「山形」の略と考えられ、自ら「山」一文字で表現していたのである。これは山形殿というブランドを強く意識していたことによると思われる。さらに「山」文字瓦は聚楽第と大坂城でも見つかっている。両城周辺に最上家の屋敷があり、そこにも「山」文字瓦が葺かれていたのである。恐らく伏見城や肥前名護屋城などにもあったはずで、今後見つかる可能性もあろう。
 このように本図には最上家の家紋や「山」文字瓦が描き込まれていた。とするとやはり山形城の天守の設計図かと思われそうだが、結局は櫻井吉久が作製して光祐に送ったものでしかない。家紋などは光祐が書き加えたのであろう。そこで注目されるのが他にも天守の図面が二点あることである。一つは習作だが、もう一つは立面図としておおよそ完成形のようである(小林家史料二三四―三)。この図も何城なのかは不明だが、恐らく光祐が作製したものと推測される。これらの図面の存在から、義光から天守造営を命じられた光祐が吉久に教えを求め、慶長十年(一六〇五)、吉久から本図が送られ、それを参考にしつつ光祐が設計を進めていたが、同十五年、義光は結局天守造営を断念したと推測できる。光祐自身が技術の集成のため、天守の情報を収集していた可能性もあると思うが、状況からするとこのようなことだったかもしれない。ひょっとしたら山形城にも大天守閣が造られた可能性がある。歴史ロマンを感じさせてくれる図面である。

■執筆:吉田 歓(山形県立米沢女子短期大学日本史学科教授)「歴史館だより25」より


〔参考文献〕
煖エ拓・吉田歓「庄内藩大工棟梁小林家文書(その8)」『米沢史学』二七、二〇一一年。
吉田歓「最上義光の大工頭小澤若狭と天守閣図面」『最上氏と出羽の歴史』高志書院、二〇一四年。
吉田歓「最上義光の天守閣計画」『温故』四一、二〇一四年。
山形市史編さん委員会他『山形市史』史料編1、一九七三年。
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2018/06/27 13:34:最上義光歴史館

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