▼最上義光所用「三十八間総覆輪筋兜」
最上義光所用「三十八間総覆輪筋兜」

 兜の変遷
 日本の甲冑は、鉄・皮革・漆・組紐・金工などさまざまな工芸技術を使って製作されており、世界の甲冑のなかでも彩りが豊かで独特の美しさがある。甲は「よろい」、冑は「かぶと」であるが、平安時代からすでに甲を「かぶと」、冑を「よろい」と読む例が文献にみられるので解釈には注意が必要である。一般的には鎧、兜を用いることが多い。頭にかぶる兜は、頭部を護る半球状の鉢(はち)と、鉢の下縁に付けて頸部から顔の左右を保護するシコロからなる。平安時代から江戸時代にかけて、星兜(ほしかぶと)、筋兜(すじかぶと)、当世兜(とうせいかぶと)などが用いられた。
 兜の鉢は、通常数枚から数十枚の緩く反らせた台形の板を鋲で留め、鉢の裾には帯状の腰巻の板を廻らせて形作られている。鋲の頭を円錐形にしたものを星と呼び、表面に星が並んだ星鉢の兜が星兜である。星兜は平安時代から室町時代を中心に用いられた。南北朝の頃から室町時代にかけては、星に代わって頭の平らな鋲を使い、表面の板の端をわずかに折った筋が目立つ筋兜が普及した。張り合わせた台形の板の枚数から何枚張(まいばり)といい、表面の筋の間の数から何間(けん)の星兜、筋兜と称している。初期の星兜には、頂辺(てへん)に髻(もとどり)を出すための径5�ほどの孔があったが、髻を結わずに兜をかぶるようになった鎌倉時代後期から頂辺の孔は小さくなっている。時代の降下とともに鉢の平面は、前後径、左右径がほぼ同寸の円鉢(まるばち)から、左右径よりも前後径がやや長い楕円形の頭形鉢(づなりばち)と変化し、間数が増加する傾向が認められる。
 桃山時代から江戸時代になると、簡素な鉢に毛を貼ったり、各種の立物(たてもの)を立てたり、山岳・動物・魚介・器物などさまざまな形を紙などで張懸(はりかけ)とした兜が多く製作された。このような兜は、それまでの伝統的な星兜や筋兜に対して、当時の新形式の兜として当世兜と称された。当世兜には、奇抜な形のものも多く現在では変り兜とも称されている。江戸時代後期になると、星兜や筋兜を手本とした復古的な兜が作られるようになり、現在の五月人形の兜にその面影を伝えている。

 筋兜の概要

〈法量〉 
 鉢高 13.2cm
 鉢前後径 22.0cm、左右径 20.3cm(腰巻の板上端で)、
 シコロ丈 14.3cm(後中央で)
 
 最上家に義光所用として伝った兜は三十八間の筋兜である。鉢は室町時代後期に多く製作された総覆輪(そうふくりん)の筋鉢であるが、シコロは当初からのものではなく、のちに新たに作られた当世風のシコロが取付けられている点が大きな特色である。平成元年に、損傷していたシコロの威糸(おどしいと)や鉢裏の受張(うけばり)などが東京国立博物館内の甲冑修理室の小澤正實氏によって修理されて現状となった。

■三十八間総覆輪筋兜(シコロをはずした状態)

 鉄製黒漆塗の鉢の表面は三十八間であるが、修理の際に鉢裏は四十二枚張であることが確認されている。鉢の平面は楕円形で、頂辺の孔が中心よりやや後にあり、鉢の前側はなだらかに傾斜し、後側は切立った形である。頂辺には銅地鍍金魚子地枝菊文高肉彫(どうじときんななこじえだぎくもんたかにくぼり)の円座(えんざ)に、透菊座(すかしぎくざ)、菊花形の立廻(たてまわし)、小刻座(こきざみざ)、玉縁(たまぶち)を加えた飾金物を据えている。玉縁の孔の径は2.1cm。

■頂辺の金物

鉢表面の各筋に銅地鍍金の覆輪をかけ、裾廻りの各間に猪目形(いのめがた)透かしの八双形(はっそうがた)の斎垣(いがき)を付けた総覆輪の筋鉢といわれる形式である。鉢の正面には花先形(はなさきがた)の装飾である鎬垂(しのだれ)を三条、後に二条付けるが、正面射向側(着用者の左側)の一条は欠損している。欠損した鎬垂近くに打ち込み疵があり、覆輪も中央で曲がり、周囲の漆もひび割れが生じている。眉庇(まびさし)は鉄地黒漆塗、覆輪懸で、後述の鍬形台を打っている。
 鉢裏の受張は、紺麻に紺糸を百重刺(ももえざし)として、花小文韋の小縁(こべり)を付ける。紫の平絹の兜の緒は傷みが甚だしかったため修理の際に韋紐でまとめられ、現在は熏韋(ふすべがわ)の緒が付けられている。兜の緒の鐶は、鉢の左・右・後の三所付とするが、左右は鉄地銅着せ、後は銅の鐶である。
 シコロは、鉄製黒漆塗一文字頭板札五段下り(てつせいくろうるしぬりいちもんじかしらいたざねごだんさがり)、黒糸素懸威(くろいとすがけおどし)、十一通(とおり)。一段目を銅地鍍金の笠鋲(かさびょう)四点で腰巻の板に付ける。一段目の両端は、外側に反らせて吹返(ふきかえし)とし、吹返には星梅鉢形の六つの孔をあけている。
 この兜は、慶長五年(1600)九月から十月の長谷堂城の合戦で、義光が着用し鉄砲玉を受けて筋金が窪んだ兜として最上家に伝わったものである。義光の曾孫にあたる最上義智が貞享元年(1648)最上義智に老中に提出した『最上家伝覚書』(内閣文庫本、国立公文書館蔵)に、
 
 一、景勝と合戦之刻、自信長賜候桶革胴之甲冑を帯シ、出羽守
   相働候刻、鉄炮玉甲の真中に中り、筋金相窪ミ申候、

とある兜に該当すると考えられており、これは織田信長より贈られた桶革胴の甲冑であったことをうかがわせている。

 鍬形(くわがた)の復元
 兜の鉢に立てる装飾を立物といい、鉢の前に付ける前立(まえたて)、頂辺に立てる頭立(づたて)、脇に立てる脇立(わきたて)、後に立てる後立(うしろたて)の類がある。平安時代以来、武士に最も好まれた前立が鍬形である。初期の形状が、農耕用の鍬の刃先に類似することから鍬形と称され、角にあたる鍬形と角元となる鍬形台からなる。平安時代は必ずしも兜につけられたものではなかったが、南北朝の頃から盛んにつけられるようになり、室町時代になると鍬形台の中央に利剣(りけん)を立てて左右の鍬形と併せて三鍬形(みつくわがた)としたものが流行した。
 この筋兜の正面の鍬形台も、枝菊文高肉透彫の中央上部に三鈷柄(さんこづか)を加えた三鍬形の形式である。このような鍬形台は、通常八重菊などの鋲三点で眉庇に固定するが、この鍬形台は、左右は八重菊鋲のままで、中央が魚子地丸に竹雀紋高肉彫の鋲(径2.7cm)に替えられている。室町時代の鍬形台につく三鈷柄は、全体の上半分のみの形が多いが、この兜の三鈷柄は下半分も加えた全体の形状をあらわしている。
 今回鍬形および利剣が、小澤氏によって復元されて威容を添えることとなった。復元にあたっては紺糸肩取威総覆輪筋兜(長崎・松浦史料博物館)、色々糸威総覆輪筋兜(鹿児島・鹿児島神宮/写真)など室町時代の兜の鍬形が参考とされた。

■色々糸威三十間総覆輪筋兜
(重要文化財・色々糸威胴丸のうち、鹿児島・鹿児島神宮)

 最上家伝来の筋兜は、室町時代後期の総覆輪の筋鉢が用いられている。この時代の兜は、札(さね)仕立てで扁平に広がった笠ジコロ(かさじころ)をつけるのが通例である。しかしこの筋兜は、シコロを板札仕立てとし、鉢内部の受張を百重刺とした点をはじめ、眉庇を韋包みとせずに黒漆塗とした点、鍬形台中央の鋲を竹雀紋の金具とした点など桃山から江戸時代と考えられる仕立て直しが認められる。これらの変更が義光の手になるものか定かではないが、丸の内に竹雀紋は、丸に二引両筋とともに最上家の家紋であり、鉄黒漆塗のシコロの形状は、下端も一文字として伊達政宗が好んだ具足の兜に類似している。政宗の母義姫は義光の妹であり、当時の好みや背景をうかがう上でも興味深い兜である。

■執筆:池田 宏(文化庁美術学芸課 主任文化財調査官)
「歴史館だより15」より

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2008/07/17 18:01:最上義光歴史館

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