最上義光歴史館/最上氏研究前進のために(二)

最上義光歴史館
最上氏研究前進のために(二)
最上氏研究前進のために(二)

 最上量の城館に関する基本的な文献とされてきたものに、丸山茂著『最上四十八舘の研究』(1944年、〈『最上四十八舘の研究』歴史図書社、1978年5月復刊〉)がある。内容についてはのちに述べるが、この書は丸山茂氏が財団法人斎藤報恩会へ提出した研究成果報告書である。
 丸山氏は、同財団から学術研究費の援助を受けて「山形県下に於ける古城址」の研究を行い、第一部「最上四十八舘の研究」、第二部「城塞址を中心とする置賜庄内両地方の政治史」、第三部「山形県下城塞の築城学的考察と其の城下町の構成」の三部作として結実する予定であったが、第二部・第三部は知られない。太平洋戦争の激化と敗戦、戦後の混乱のためであろうか。ともあれ、三部作の構成を見ると、第二部が置賜・庄内を対象とすることから、第一部の「最上四十八舘の研究」(歴史図書社の復刊本は「舘」を「館」に替えている)は、村山・最上の城館址を対象とすることがよみとれる。

 さて、『最上四十八舘の研究』は七章からなり、その構成は最上氏の歴史に沿っている。つまり、延文元年(1356)斯波兼頼の山形入部、南北朝時代から室町期の最上一族の分封、天正9年(1581)の最上郡制圧、天正12年の天童・寒河江・谷地攻略、慶長五年(1600)の関ヶ原合戦、元和8年(1622)の最上氏改易という流れに沿ったものである。
 取り上げられている城館は、具体的な記述のないものも含めて、七十七である。その記述は村山・最上の城館で占められ、庄内の城館の記述は若干あるのみで、由利郡では本庄館が唯一取り上げられている。城と舘の区別は明確ではない。城がつくものは、山形城・寒河江城・左沢城・谷地城・白鳥城・小国城・延沢城であるが、第七章第三節「最上四十八舘の整備」では、山形城以外はすべて館とされている。戦後においても、かつて城館が存在した山を「シロヤマ」ではなく「タテヤマ」と呼ぶのが一般的であり、江戸時代以来、地元でも「シロ」ではなく「タテ」と称してきたことを反映していると思われる。
 その記述方法は、古文書・系図・縁起・過去帳などによる城主の考察と古絵図・地形図・鳥瞰図・現地調査による城館の考察からなる。研究の時代的な背景から、実測図や発掘の成果というような手法は取り入れられていない。その内容は、城館を基軸とした最上氏の歴史と最上家臣団の研究といえ、現在でも基本的文献として取り上げられるべき優れた研究といえよう。

 「最上四十八舘」という名称について、丸山氏自身は次のように述べられている。

『此の時代(最上家覇権時代)が即ち所謂最上四十八舘の防衛陣を構へた黄金時代であって、最上家隆昌の最高峰点であった。最上家末期の攻防陣営の数を俗に四十八館と謂われているが、巷間に伝わる何れの記録を見ても、其の城塞のは決して四十八に止ってゐない。筆者が調査した範囲内に於いて五三、五四、六五、七五、七六といふ数字である事から観て、四十八という数字は、必ずしも城塞の直感数ではなく、単なる抽象数であったらしく、其の数の起りは、いろは四十八といふ古事の語呂に因んで、量多数の意を含ませたか、若しくは兼頼入部当時の封土、最上郡四十八郷の数字に倣ったかの何れかであろう。』 

 と述べられており、「四十八」という数字については、単なる抽象数として疑問を呈されている(同書23頁)。ただ、「最上四十八舘」という呼び方は既に存在していたようであるが、いつから誰が、このような呼び方をするようになったかは未詳である。最上家覇権時代とは、関ヶ原合戦ののち最上義光が慶長6年庄内、慶長七年由利郡を加増されて以後、元和八年の改易までの時期にあたり、この時期の最上家の城館が「最上四十八舘」ということになる。しかし、この書には、庄内の城館については若干の記述にとどまり、由利郡は本庄館のみであり、最上領の城館の研究としては、不十分の感を免れない。
 問題は、この「四十八」という数字が、丸山氏の意図とは別に、その後一人歩きしたことにある。誉田慶恩著、日本の武将60『奥羽の驍将−最上義光−』(人物往来社、1967年6月)には「最上領では大身豪族層の城下町集中が未熟で、領内各地に城塞を残し、俗に最上四十八舘と称された」と記述されている(同書211頁)。大身豪族層の山形城下集中が未熟であったかは疑問であるが、ここでは丸山氏が最上家覇権時代と呼んだ時期の城館を「最上四十八舘」と称するとしている。

 ところが、『山形市史』上巻、原始・古代・中世編(山形市、1973年3月)の「第四章 中世の村山盆地」「第二節 室町時代と村山地方」の「3 館・在家の構造と郷村制」に「最上四十八舘」の項があり、「最上領では、領内各地に城塞があり俗に『最上四十八』と称された四十八城とは、どれとどれなのか明確ではなく、はたして本当に四十八あったか疑わしい。最上四十八楯とは、浄土信仰の弥陀四十八願にちなんだ名数だったかもしれない」とされ、四十八という数字にこだわりを見せ、はたして四十八あったか疑わしい、とまで述べている。筆者は誉田慶恩氏である。
 しかし、この四十八という数字にこだわることは無意味である。つまり、最上領国の城館数は四十八ではない、ということである。中世には郷数や信仰に関わる数字として、八・十二・三十三・四十八・六十六・八十八などの数字がよく使われている。「最上三十三観音」「四国霊場八十八ヶ所」や誉田氏が言われる「弥陀四十八願」などである。信仰に関わるものは別として、八は末広がりの縁起がいい数字であり、四十八は「いろは四十八」の数字であるが十二の四倍にあたり、六十六は「日本六十六カ国」の数字で、三十三はその半分である。四十八という数字から身近なものをあげれば、相撲の決まり手「四十八手」があるが、実際の決まり手はこれより遥かに多いのであり、実体を示すものではない。
 つまり、「最上四十八舘」という呼称は、基本的に最上領の城館が多いということを示すが、実際に城館を数えて四十あったとしても五十あったとしても、基準となる数字である四十八に代表させるということなのであり、最上領に四十八の城館があったという意味ではない。郷数も同様であり、ある地域の郷数が三十三郷とか四十八郷といわれるのも正確な数字ではなく、その程度の郷数であるという意味である。江戸時代の村を基準に郷数を数えても、三十三とか四十八にならないのは当然なことである。

 この数字に関連するものとして、古くから言われているものに「天童八楯」「由利十二頭」がある。
 「天童八楯」は「最上八楯」とも称されるが、「最上八楯」の名称は不適切であり、天童氏を盟主とする国人一揆という意味で「天童八楯」が相応しい。戦国期の「天童八楯」とされる領主には、天童氏・延沢氏・飯田氏・尾花沢氏・楯岡氏・長瀞氏・六田氏・成生氏の八氏があげられているが、これは八という数字にこだわった数え方と言わざるを得ず、このほかにも東根氏や細川氏など、あげるべき領主が存在する。例え十氏になっても、この国人一揆は「天童八楯」と称されるのである。
 「由利十二頭」は、戦国期における由利郡の領主を端的に表現したもので、由利郡には小さな領主が多く割拠した、という意味であろう。実際に由利郡の領主を数えていくと、十二を超えることは確実である。この場合も、例え十三や十四になっても「由利十二頭」と称されるのである。
 近年、全国的規模で城館跡の調査が行われ、また城館跡の発掘が進行して新たな知見が付け加えられている。最上領でも新たな城館跡が多数発見されており、「最上四十八舘」という呼び方は、現在では「過去の遺物」といえよう。

■執筆:粟野俊之(駒澤大学講師)「歴史館だより9」より



2007/11/10 08:43 (C) 最上義光歴史館