最上義光歴史館/名刀「東禅寺正宗」流転 

最上義光歴史館
名刀「東禅寺正宗」流転 
◆◇◆名刀「東禅寺正宗」流転◆◇◆            

 前号では、「最上家浪人作のベストセラー」と題して、寛永19年(1641)に発刊された『可笑記』なる仮名草子を紹介したが、この中の巻第五の二十段に、酒田生まれの著者斎藤親盛が、父親(筑後守広盛)から聞いた話しとして興味深い記事がある。
 それは、著者の母方の祖父東禅寺右馬頭勝正の武勇伝である。これによって親盛は、一時庄内方面を支配していた東禅寺氏の血脈であったことが分かる。だが、彼の略伝については他日に譲ることにし、今回は右馬頭の悲壮な最期とその時に佩いていた太刀の行方について紹介したい。
 天正16年(1588)八月、世に言う「十五里ヶ原の戦」が起こった。ここは現在の鶴岡と大山の中間、千安川東岸辺をいう。この合戦は、東禅寺氏の庄内勢を主力とする最上義光方に対して、上杉景勝の後援を受けた越後村上城主本庄繁長の庄内争奪戦であった。最上方の最前線で戦ったのが、東禅寺筑前守義長と右馬頭兄弟、それに義光から派遣された草苅虎之助たちである。
 圧倒的優勢を誇る本庄勢によって庄内勢はまたたく間に壊滅した。筑前守と草苅の二将は討死。残った右馬頭は単身繁長に迫り、真っ向から恨みの太刀を再三浴びせたものの果たせず、逆にずたずたに斬られて壮絶な最期を遂げる。『可笑記』は彼の享年を43歳としている。
 この時右馬頭の佩いていた太刀が、相州正宗によって鍛えぬかれた「二尺七寸大幅物、ぬけば玉散るばかり」の名刀である。繁長は「星甲のかたびん二寸ほど切り落とされ、わたがみ(肩上)へ打ち込まれた」が、事なきを得た。彼はその太刀を分捕り自分の愛刀にした。本来ならば、「東禅寺正宗」と呼ばれるはずであった名刀が後に名物「本庄正宗」となる、正に爐修了″であった。
 さらに『可笑記』は続ける。この正宗は、その後繁長から景勝へ、さらに秀吉を経て家康に渡った。その間に刃長二尺三寸ほどに摺上げられ(短くされ)、現在は紀州徳川家にあるようだと。また、出羽や越後の古老は、右馬頭の最期の働きを多分に見聞しているだろうから、これ以上は詳述しないと。この一節から、現在は浪人の身でも出自は高位の武家の血を引くという誇りと、惰弱に流れつつある当時の武家に対する彼一流の批判が見て取れよう。
 ともあれ、八代将軍吉宗の時代になって、この刀は名物「本庄正宗」として登場してくる。『享保名物牒』なる名物刀剣の台帳には、刃長が二尺一寸五分半、東禅寺右馬頭が本庄繁長の甲の鉢を割ったためか刃こぼれある、と記されている。また、『名物牒』は移動経路についてもかなり詳しく、『可笑記』との違いを見せている。
 『名物牒』などの記録によると、「本庄正宗」の流れはおおよそ次のようになる。この正宗は、右馬頭から繁長を経て一旦は景勝の手に渡った。ところが景勝から繁長へ戻され、今度は豊臣秀次へ。そして秀吉へと移り、島津義弘が拝領し、さらに島津家から家康へ献上、家康から駿河頼宣(後の紀州徳川家)に分与された。その後、紀州徳川家から四代将軍家綱へ献上されている。
 この正宗は、明治以降も徳川宗家にあって三種の神器のように大切に扱われ、昭和14年に旧国宝に指定されたほどの名刀であったが、同20年12月に進駐軍によって持ち去られたまま未だに行方知れずという(『武将とその愛刀』佐藤寒山著)。
 このような流転の名刀正宗を佩き、戦場に散った東禅寺右馬頭。彼が存命であったならば、おそらく最上家では屈指の人物として活躍したことであろう。また、『可笑記』の著者の胸中には、そうした人物を祖父に持つ家門の誇りを垣間見る思いがする。

■執筆:渋谷武士「歴史館だより14/研究余滴7」掲載原稿(完全版)

2007/04/10 08:43 (C) 最上義光歴史館
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