最上義光歴史館/最上氏と山寺立石寺

最上義光歴史館
最上氏と山寺立石寺
最上氏と山寺立石寺

一 立石寺の漆塗り和紙皿
 2002年12月2日(月)『図説山形市の歴史と文化』執筆のために山寺立石寺へ写真撮影に伺った。山形市社会教育課の方・山形美術館加藤千明氏・高野山の日野西真定氏など、総勢10人でおじゃました。
 予定通り写真は撮れたのであるが、その中で住職清原浄田さんが出してくれた寺宝のなかに、驚くべきものもあった。
 それは仏事の際に使用する皿である。素材は紙でできていて、その上に赤漆を塗り、内側には黒漆で蓮の花を形作った模様が描かれているもので、全部で50個あった。50個全部の底には次のように記されてあった。

「  惣社徳蔵寺寄進
   箕輪東光院貢献  五十枚之内
   天正九(巳辛)八月吉日       」
 
 天正9年(1581)に箕輪光院の弘賢が、惣社徳蔵寺に寄進したものであることがわかる。それがいつの時期かに出羽立石寺に運ばれてきたことになろう。しかも寄進された50個がそのまま残されているのである。
 惣社は上野国の惣社であり(群馬県前橋市元惣社町)、隣接して徳蔵寺(功叡山放光寺ともいう)がある。この寺は天台宗の寺院で、文明3年(1471)足利氏の祈願寺として建立された(中世一宮制研究会編『中世一宮制の基礎的研究』岩田書院、2000年)。惣社の旧社地は現在地の北西500辰砲△蝓永禄9年(1566)武田氏の兵火にあい焼失したのを、元亀年間(1570〜73)現社地に再建したものである(『別冊歴史読本 日本神社名鑑諸国一宮』新人物往来社、2002年)。
 上野国の惣社とすぐわかったのは、立石寺住職69世清原浄田氏がこの皿の底に記された寺名を見てすぐ「この名前は群馬県にある」と指摘されたことによる(群馬県前橋市)。その眼力たるやさすが、常人の及ばざるところ、感服する次第である。寺社間における関東と出羽国との交渉については、慈恩寺(寒河江市)の例に見られるように頻繁であること既に周知の事実である。
 さて箕輪であるが、現在の群馬県箕輪町に位置する。榛名山の扇状地であり、西明屋北部の地形が蓑の形をしていることからくる地名である。同町西明屋にある箕輪城は長野氏が築城した山城である。その後武田氏と後北条氏が取り合いをした西上野の中心的な地位を占める重要な城となっていく。近世には井伊直政が城主となるが、慶長3年高崎城(高崎市)に移ると廃城となり、寺社もかなり共に移転したようである(『日本地名大辞典 群馬県』角川書店)。残念ながら東光寺については今のところよくわからない。
 いずれにしても中世の貴重な史料でありしかも漆芸の面からもとても貴重な物であることはまちがいない(加藤千明氏のご教示による)。山寺の寺宝は、まさしく宝の山というべきである。

二 最上氏と立石寺の関わり 
 この最上氏と立石寺は代々深い関係を有している。延文元(正平11、1356)斯波兼頼が羽州管領として入部すると、根本中堂を再建したことからはじまる。山寺のある位置が、山形城の鬼門鎮護の位置にあることに起因するとされる。
 さて表は両者の関係を現している。永正17年(1520)伊達稙宗が天童・高戮鮃兇瓩討たときに、山寺の衆徒らが伊達方に加担したことを恨んで、大永元年(1521)天童・成生両氏が山寺に攻撃をして灰燼に帰してしまう。「寺中家無一十余年、其間堂社破」の状況にあった山寺を最上氏らの援助などによって再興していく。天文3年に立石寺日枝神社が修造されるが、旦那の一人「山形殿」は最上義守である。同じく焼き討ちによって不滅の法燈が焼失してしまったため、天文12年(1543)立石寺の一相坊圓海は、4月に比叡山に登拝し、6月に根本中堂の燈火を分火してもらい、海上を輸送した後に立石寺に納火する。この時助成したのが義守の母であるが、義守は中野義清の次男とされるので義清夫人ということになる。日枝神社の修造もそうであるが、山寺の復興を最上宗家だけでなく一族の総力を挙げて成し遂げようとしている姿がうかがえる。この燈火は元亀2年(1571)に信長の焼き討ちにあって焼失した比叡山根本中堂に、今度は立石寺側が天正13年に登拝して納めることになる。
 永禄13年義光が願文を献じて、本懐を遂げたあかつきには、「他宗住居」を認めないことを誓っている。「本懐」については、従来から義光の家督相続のことを意味していると解釈されている。父義守との父子相克があって、家督相続に暗雲が立ちこめている状況下で願文が書かれたことになる。自分の将来を託すほどに山寺への崇敬が厚かったことになろう。それにしても山寺内部の対立抗争などについても、よく知っていたことには驚く。天正14年義光は常燈油田を寄進する。この時自らを「高楡小僧丸 義光」と称している。「高楡小僧丸」という呼称については、義光が高楡(天童)に居住していたからこう称したのだという解釈もあるが、どうであろう。高楡には、高楡城・石仏寺・専称寺(後に願行寺)などが存在して、確かに重要なところではある。しかしながら天正12年(1584)いわゆる天童合戦に勝利して、領地を現在の村山・最上両地域に拡大し、さらに庄内まで触手を伸ばしている段階で、高楡に居住することは考えられない。家督を相続する以前の段階であればあり得ないことではないが。それにしても何故「高楡小僧丸」と名乗ったのか。他にも天正17年2月20日、最上義光預置状(青木文書)で、義光は「谷地小僧丸」と名乗っている。いずれも今後の検討課題ではある。
 その後近世に入ってから、慶長4年義光は、立石寺納経堂を修造している。慶長13年には楯岡光直(義光の弟)が、義光の長寿を祈願して立石寺根本中堂に鰐口を寄進している。
 このように最上氏が山寺を崇敬し、保護するという関係は、最上氏が改易されるまで続いていった。

執筆:伊藤清郎(山形大学教育学部教授・文学博士)/「歴史館だより10」より


2006/11/11 08:53 (C) 最上義光歴史館