最上義光歴史館/山形藩主・最上家親の最期を正す−ある一学僧の日記を検証して− 

最上義光歴史館
山形藩主・最上家親の最期を正す−ある一学僧の日記を検証して− 
山形藩主・最上家親の最期を正す 
 −ある一学僧の日記を検証して−

 慶長19年、(1614)正月、義光を病で失った後の駿河守家親の襲封は、必ずしも平穏な藩内情勢のもとで行われたものでは無かった。しかし、義光以来の徳川家との親密さに加え、家親自身も若年より家康に近侍しており、その友好な結び付きから家親の襲封には何らの支障もきたす事なく、もの年に起きた藩内抗争についても、幕府は疑惑の目を向けることは無かったのである。
 その年の夏は越後高田城普請手伝いを勤め、続いて大阪の陣では江戸城留守居役に任ぜられる程に、幕府の信任を得ていた。この家親の元和3年(1617)3月に至るまでの、三年余の藩主時代を評価するには、それを語る程のものも無く、家親と言えばその不可解な死因のみに凝縮され、喧伝されてきた感がある。
 曰く「鷹狩りの帰路、楯岡甲斐守邸で饗応の後、帰城すると苦しみ出し絶命した(諸家深秘録)」、また「能楽を楽しみ食後に腹痛をおこして死んだ(藩翰譜)」、さらには侍妾に寝室で刺殺されたとか、甚だしきは山野辺義忠が持参した饅頭を食べて悶絶、死骸は早々に灰にされたなどと、家親の人格を全く無視するような、惨めな評価を受けてきたのである。
 このような家親につきまとう数々の変事が、どのような経緯で形づくられてきたのか、ここで解明するのは困難である。しかし、ここに来てその従来の悪評を根底から否定し、家親の面目を晴らすことになった、家親と親交のあった一学僧の『日記』に巡り会えたのである。
 竜派禅珠(寒松と号す)は天文18年(1549)に生れ、寛永13年(1636)88歳で没した臨済宗に属した学僧である。埼玉県川口市(当時の芝郷)の長徳寺の住持で、慶長7年(1602)に徳川家康の命により、足利学校の庠主となり、両所の教育と寺務とを勤めた人物である。諸学問に精通し、将軍家や、幕府要人をはじめ諸大名とも交流を持ち、特に卜筮(占い)に通じていたから、一年間の展望を占う年筮を献ずるを常としていた。現在、寒松日記は欠年の箇所もあるが、和様漢文で簡潔に書かれており、所々に見える家親に関わる記事の中から、元和3年(1617)の江戸での家親と子の源五郎の動きから、特に死亡日とされる3月6日前後の記事を拾い、疑惑に満ちた死因を払拭し、家親の名誉を回復していきたい。

(イ)正月六日 「未だ暁けず、芝阜を出て江戸に入る」
 寒松は将軍たちへの年筮献上のため、新年早々芝村を出て江戸に入った。

(ロ)同月十日 「晴れ登城する、炉辺に至り年筮を献ず、城より帰る時、駿州(家親)の第(邸)に往く、昨夜、使者口上に齟齬(くいちがい)せし故、空しく帰る」
 寒松は登城して将軍秀忠に年筮を献じ、続いて家親を訪れる。しかし、何らかの手違いで会えずに帰った。この日、寒松は老中の青山忠俊・本多正純・土井利勝などにも会っていた。

(ハ)同月一三日 「駿州にて晨炊す」
 この日、寒松は早々と家親を訪ね朝食を共にした。恒例の年筮を献じてのことであったろう。家親が新年を江戸で迎えていたことが判る。そして、旧知との親交を重ねながら、一週間後に芝村に帰っていった。

(ニ)二月七日 「継いで道閑の所よりも贈り来る」
 道閑は寿庵とも称し、学問・医術に精通した人物で、度々登場している。義光死去の際の家親下向にも従うなど、家親親子に近侍していたことを示す書状もあり、この道閑の動向が家親の所在確認に、貴重な指針となっている。二日前、寒松はこの年の二度目の江戸入りを果たす。日記は例により各層の人物との接触を伝える。この道閑の贈物は最上家からの物ではなかったか。

(ホ)三月二日 「道閑、餅酒を贈り来る」
 家親の死を数日後に控え、道閑より再び贈物があった。この日に近臣の道閑が江戸にいたということは、それは家親の在府を示す、貴重な記録の一つであろう。この日、寒松は安藤重信・本多正純・土井利勝などの要人達と会っている。しかし、寒松が芝村に帰る12日までの間、家親の進退については一言も触れてはいない。ここに家親が病床に伏したことを裏付ける、将軍からの見舞状がある。
  同三巳(元和3年)
  病気之節
  賜御書
  所労之由無心許、能々養生肝要候、猶酒井備後守可申候也、
  三月 秀忠(黒印)
  最上駿河守とのへ
 この見舞状を見ても、将軍お膝元の江戸の真ん中で、藩主殺害などという途方もない出来事が行われたとは、とうてい考えられないのである。将軍から見舞状を受ける程に、秀忠からの信任は厚かったのである。

(ヘ)同月一二日 「最上の疾病を筮ひ、翌(日)侶庵を遣す」
 寒村はこの在府中に家親に会わずに帰路についた。途中、悪天候に悩まされながら蕨宿に着く。寒松は家親が既に病に倒れていたことを知っていたのだろう。それを気遣ってか占いをたて、親友で医師の侶庵を家親のもとに遣わした。おそらく、占いに悲観的な結果が出たからであろうか。家親の死去日(6日)が事実ならば、寒松が出立するこの日まで、未だ公にされず伏せられていたのか、それとも寒松には知らせがなかったのか。その後、江戸に入った侶庵から、最上家の内情についての報告は受けていたであろうが、3月中の日記は何も語ってはいない。秋田藩士梅津政景の3月18日の日記には、4日の晩に俄かに患い、6日の四ツ時に亡くなったと記している。

(ト)四月廿日 「甲寅 小月中駿州の訃」
 家親の死から四十数日の後、足利学校の寒松のもとに、その死が知らされたが、日記は簡潔に伝えるのみである。しかし、この時期にはじめて家親の死を知った訳ではなかろう。この日、はじめて最上家より正式な知らせがあったのではなかろうか。

(チ)五月一六日 「雨 最上源五郎より飛脚来る、寿庵(道閑)・侶庵の文相添える」
 5月3日に家督を継いだ源五郎義俊より、寿庵・侶庵の文を添えての飛脚が来た。義俊襲封の挨拶を兼ね、父同様の交誼を願ってのことであったろう。二人の文には家親死後の最上家の現状が述べられていたであろう。以後、寒松との関係は義俊の代まで持続したのである。
 
 最期に思うには、家親は春の一日を能楽で楽しんでいたが、春の陽気に食中りで倒れたのではなかろうか。江戸の真ん中で何か変事でも起こせば、隠し通すことは困難である。まして将軍の見舞状もあるように、家親変死説は受け入れられず、単に急死として扱うべき問題である。従来の不可解な説の一つでも事実であれば、その時点に於いて大名の地位を失っていたであろう。寒松日記は、従来の説を根底から覆す好材料として、姿を現してくれたのである。

(執筆:小野末三/「歴史館だより11」より)


2006/10/28 08:58 (C) 最上義光歴史館