最上義光歴史館/義光のまなざし

最上義光歴史館
義光のまなざし
◆◇◆義光のまなざし◆◇◆       


「清和天皇末葉山形出羽守有髪僧義光」
(せいわてんのうまつようやまがたでわのかみうはつのそうよしあき)

 有名な鉄指揮棒の銘である。義光という人物を考えるとき、これはもっと吟味されていいと思う。清和天皇は仁慈の徳高く、釈教に思いを深めた天皇として知られ、その子孫は武門の名流「清和源氏」となった。この十六文字は、義光の高い誇りと、慈悲を旨とする仏法の実践者であるという決意を述べたものと考えられる。
 そもそも同時代の武人は、敵の城を攻め落として撫で斬りにした。苛政に耐えかねて一揆がおこると、首謀者を火あぶりにした。だが、こういう話は義光にはない。
 義光の戦いにしても凄惨さは避けられないが、それでも、逃がれようとする敵勢を見逃し、降伏者を受入れ、敵将の遺児を身内の者に養育させた、そういう話ならある。
 寒河江・谷地攻略のあと、民衆に向かって義光はこう語ったという。
 「近年は戦さがつづいてみな困っただろう。だが戦いは終わった。民百姓はみな安らかに暮らせ。心のどかに、妻や子をはぐくむがよい」そして、居住地を認め、老齢者や身体不自由の者をいたわって食料を給した。喜んだ人々は「義光公はまこと、民の父母ならん」と感謝したという。(『羽陽軍記』)
 「出羽守義光は、よく地下人をなつけ、家臣同様に大切しておられる。そのせいで最上の百姓共は図に乗って活気づき、進撃したわれわれ直江軍を困らせた」会津の考証史家はこう書いた。(『最上合戦記』)
 義光は晩年、重臣たちが山形城大改修を進言したのに対して、「無欲をもって民をあわれむは謀(はかりごと)の第一。城堀の普請は民の草臥になるだけ」と諭したと「羽源記」にあるが、状況から見て、これは実際にあったことと思われる。
 義光の連歌に、こんな句がある。

○おくて田は秋更くるまで守りけらし 
(晩生の稲田は、秋遅くまで手入れするのだな)

○かすかなる水もや末に分かつらん 
(炎暑。百姓たちはわずかな水も分け合うのだ)

○あぜ伝う深田の末の崩れ沿い 
(立派な水田も、豪雨で崩れてしまった。気の毒に…)

○深田をば作りもやらず荒らしおき 
(せっかくの美田を手入れもできず荒らしている。主人が病気なのか、それとも死んだのか)

 義光のまなざしは、人々の暮らしにあたたかに注がれているのだ。

■執筆:片桐繁雄「歴史館だより29/研究余滴21」より

片桐繁雄先生(長谷勘三郎/元最上義光歴史館事務局長)は令和四年二月十五日に逝去されました。先生の最上義光研究の偉大なご功績を讃えるとともに、謹んでご冥福をお祈りいたします。なお、本稿は生前ご入稿いただいたものです。

2022/11/30 15:44 (C) 最上義光歴史館
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