最上義光歴史館/「石鳥居」のこと

最上義光歴史館
「石鳥居」のこと
◆◇◆「石鳥居」のこと◆◇◆

 山形周辺のあちこちに特徴のはっきりした古めかしい石鳥居があって、いろいろと話題になってきた。
 むかし尾花沢野黒沢の諏訪神社前に、倒れた石鳥居があった。これを、山形師範学校の長井政太郎氏と、東根八幡宮の神官・三浦桂一氏のお二人が、礎石の柱穴まで土砂を掘り払ってみたところ、土の中から永楽通宝3枚を含む渡来銭が数枚発見されたという。これは鳥居建立の時代の手がかりになるはずと、更に慎重に作業を続けられたそうである。
 ちょっと歴史を前に戻すと、日本では平家政権以後も、中国とはますます深い関わりが生まれ、鎌倉仏教など宗教の面においても重大な発展が見られるようになった。日本中世の発展を下支えしたのが、中国から輸入された銭貨だったわけで、室町時代以後では「永楽銭」がその代表的存在だったのである。山形地方での鎌倉・室町時代は、柏倉の寺山に大曽根荘の荘官安達氏によって、堂々たる山岳寺院が創建されていたし、近隣の長谷堂滝の山には、羽黒山を「御本社」と称する山岳修行者の拠点として、「滝山寺」が活気を呈していた。当然、これらの寺跡からは同時代の遺物と共に量は少ないが、渡来銭も出土している。近くの谷柏では、鎌倉時代に渡来したと考えられる唐、宋・元朝時代の渡来銭が数千枚掘り出されたこともある。
 さて、室町幕府によって独占的に輸入された「永楽銭」は、幕府や有力大名たちの挺子いれもあって、流通期間が非常に長かったそうで、国内での流通はますます盛んになり、量的にも膨大なものになったらしい。山形地方では、江戸時代初期の貞享二年(1685)大石田村「道天」というところの畑から40貫目(約4000枚)の永楽銭が掘り出されたという。この当時は永楽銭を示す「永」が銭を指す普通名詞にもなっていたそうである。足利・織豊・徳川と、時代は戦国から太平の時代にはいる。
 安定的に動きはじめた幕府は、自国の銭は自国で鋳造すべきだとの方針を定め、寛永十三年(1636)以後は「寛永通宝」が各所で鋳造されるに至った。それが相当広まって、頃合を見計らったのであろう、寛文十年(1670)には、渡来銭の通用を禁止するにいたった。もちろん、全国的に一気に実行されたわけでもないだろうと思われる。
 芭蕉の句「この筋は銀も見知らず不自由さよ」という句は、こういう時代の通貨流通状況を実感させてくれる。
 尾花沢近隣の野黒沢で永楽銭が発見されたということは、永楽銭が大量に流通していた時代があったと考えられるわけである。鳥居柱石の下にこの銭貨が置かれたかまたはたまたま土に紛れこんだか、とは考えてよかろう。
 長井先生は、このことから、歴史・地理学者として、山形市元木・成沢の石鳥が平安時代のものという考えには否定的になられたようだ。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより27/研究余滴19」より
2021/01/18 02:00 (C) 最上義光歴史館