最上義光歴史館/最上義光連歌の世界ァ〔昌甸邉徑

最上義光歴史館
最上義光連歌の世界ァ〔昌甸邉徑
最上義光連歌の世界

1 おる花のあとや月見る夏木立      義光
2  御簾のみとりに明(け)やすき山   紹巴 

  慶長三年(一五九八)四月十九日
   賦何墻連歌      初折の表

 今回採り上げた句で、短詩型文学の解釈の困難さ、別の言い方をすれば、「座の文学」と呼ばれる「連歌(「誹諧連歌」もふくむ)」を、後世、その「座」に関わらぬ人々、すなわち我々が解釈することの困難さについての、考察を行う。
 この発句の大意は、そのまま素直に読めば、「春の桜を手折って風流を尽し、今、夏木立の中に座り、遅く出た月を眺めて(同じく、風雅の思いを人々と共有して)いる」となる。「桜・夏の月」いずれも、和歌に詠み習わされて来た素材で、そのとらえ方も、特に目新しくはないように見える。(この点については、別見を次回記したい)
 疑問を感ずるのは、「桜を手折ったのは誰かという点である。前述の大意では「義光(または、義光と紹巴ら一座の人々)」となろうが、これらの人々が置かれた世情を思う時、別解が可能かとも思うのである。
 その前提には、第一点として先に触れたが、「座」から離れた短詩型文学解釈の難しさが挙げられる。第二点として、その場の連衆が、その時どのような位置を社会の中で占めていたかということが考えられる。特に、義光・紹巴の師弟は、単なる文芸愛好家ではないのである。
 慶長三年(一五九八)四月とは、どんな時節であったか。その直前の三月十四日には、秀吉最晩年の風雅の盛事「醍醐の花見」が挙行された。(秀吉はその後、病に臥す)「おる花」とは、この行事を踏まえている可能性を、探ってみたいのである。となると、「醍醐の花見を人々とともに寿いだ後、今、初夏の月の下、我々は風雅の時を味わっている」ほどの意となるか。うがちすぎと言うべきであろうか。
 以上のように推測したくなるのは、義光・紹巴ともに、この比、権力の怖しさを改めて意識せざるを得ない状況にあったと思われるからである。
 三年前の文禄四年(一五九五)の秋は、義光にとっても紹巴にとっても痛恨の秋であった。義光にとっては駒姫の死がそれに該当することは、改めて述べるまでもない。紹巴は秀次に近侍していたということで、八月十九日知行百石を没収され、近江国三井寺門前に追放となった。
 奥田勲氏は「連歌師 − 日本人の行動と思想 − 評論社 昭和五十一年」で

紹巴は決してすでに「連歌師」ではない。連歌師という立場を巧みに利用しつつ、権力構造の内奥に立ち入って、さまざまに紹巴なりの決定を行って来たのである。

と、紹巴と権力(秀吉・秀次)と関わりを論ぜられた。その紹巴は、権力に近づき、その一部を手にしたことの怖しさを、十二分に味わったこととなる。
 彼は慶長二年(一五九七)に許されて八月七日に、帰京を祝う連歌があった。義光は、翌日八日の「木食上人応其興行百韻」に参加している。その関係のなみなみならぬことがうかがえる。紹巴帰京の後の文芸行事に参加した人々は手放しで、紹巴の帰京を喜びえたであろうか。作品が何かの折に権力者の目に止った時、その権力者を寿ぐ表現により、受難を回避する工夫・配慮をすることもありえたのではなかろうか。
 採り上げた連歌の張行の時期・その折の人々のあり様を考え合わせると、このような推測を行ってみたくなってしまう。
 なお、この付け合いについて、前述したが補足すべきことがあり、次稿に記したい。

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより28」より
2022/01/04 15:00 (C) 最上義光歴史館