最上義光歴史館/【4】 奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか

最上義光歴史館
【4】 奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか
奥羽永慶軍記の「最上義光、騎馬揃の事」の地、天童の野はどこか【4】

4.現存する古絵図などを検討する

(1) 出羽一國之絵図…図−1
鶴岡市の致道博物館が所蔵する「出羽一國之絵図」は、大泉紀年によれば庄内藩では正保2(1645)年、幕府から下命を受け、同4(1647)年に納めたとある。
天童市の乱川と東根市の野川の間、陸上自衛隊駐屯地の東方に「天童原」と記されている地域がある。

《図−1》 「出羽一國之絵図」致道博物館所蔵

(2) 出羽一國之絵図…図−2
山形県総合運動公園の南、旧奈良沢村・旧荻野戸村・旧荒谷村・旧清池村・旧門伝村に囲まれた立谷沢右岸に広大な森林・原野と思われる図が描かれ「寺原」南北拾貮丁と記されている地域がある。

《図−2》 「出羽一國之絵図」致道博物館所蔵

(3) 堀田藩時代の山形藩絵図…図−3
元禄5(1700)から延享3(1746)年頃の絵図で上記(1)の絵図と同様の位置に「天童原」と記されている。

《図−3》

(4) 大日本帝國陸地測量部発行「仙台」…図−4
明治27(1894)年発行された縮尺20万分の1の地形図で上記(1)、(3)の絵図と同様の位置に「天童原」と記されている。

《図−4》

(5) 大日本帝國陸地測量部発行「天童」…図−5
明治37(1904)年6月30日発行された縮尺2万分の1の地形図に天童原の記載は見当たらないが、この図には舞鶴山の北西山麓に天童氏の家臣達の居住地(永和元年・天授元(1375)年〜天正12(1584)年の間、現天童市小路)から糠塚の西を通り、若松街道を交差し原崎に至る古道跡(写真1、4、5、6、7参照)がある。

《図−5》


《写真-1》


《写真-4》 天童市立第二中学校 W=2,5m 


《写真-5》 天童小路〜原崎 天童原 W=2,5m 天童市立第二中学校東側


《写真-6》 天童小路〜原崎 天童原 W=2,5m 天童市立第二中学校東側


《写真-7》 天童小路〜原崎 天童原 W=2,5m 渡辺宅前十字路

市街地は昭和38〜50年の都市計画事業により失われたが、糠塚の西に立地したヨークベニマルなどの商業施設の西側に現存(写真-1参照)している。

(6) 国土地理院発行「天童」…図−6
平成12年7月1日発行、縮尺2万5千分の1地形図に国道13号線と国道48号線の十字路から東方に「天童原」と記されている。

《図−6》

(7) ゼンリン住宅地図‘96山形県天童市
上記(6)と同様の位置に「天童原」と記されている。地籍名にはない地名であるが、古来からこの地域を天童原と言い地域住民の集いの場、天童原公民館が設置されている。(写真-2参照)

《写真-2》

 以上、古絵図や地形図などに「天童原」と明記されている所は、東根市神町地域と天童市旧山口村の天童原という集落の2ヶ所に存在することが分った。上記以外に広がりのある原野・林地など古地図及び文献、伝承など見当らない。
 次に(6)国土地理院発行図-6を見ると、上記(5)でいう古道が天童原に位置する天童市立第二中学校(文)から、原崎まで残っている。原崎地区圃場整備事業により一部失われているが、工事着工前の昭和46年に測量した現形図により確認することができる。その個所はJAフルーツセンターの東隣に白壁の建物()フルーツ果乃蔵所で成生庄から来る道へ繋がる。(写真-3参照)

《写真-3》 ●印は仮称天童小路・原崎線と横道との交叉付近 

■執筆:矢野光夫

【参考文献】
ァ峺酬楚沺彭憩源垳矯蠱篭菠狆貔鞍事業 昭和46.7.1測量終了



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2021/04/11 14:23 (C) 最上義光歴史館
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