最上義光歴史館/史料紹介 一花堂乗阿『最上下向道記』から考える

最上義光歴史館
史料紹介 一花堂乗阿『最上下向道記』から考える
史料紹介 一花堂乗阿『最上下向道記』から考える

【一】
 山形市七日町の光明寺に、一花堂乗阿の『最上下向道記』が秘蔵されている。
 乗阿は時宗の僧侶で、桃山〜江戸初期(一六〇〇年前後)に京都を中心に活躍し、『源氏物語』『古今和歌集』などの古典研究に寄与した学者である。歌人として、また連歌の指導者としても知られていた。貞門俳譜の祖松永貞徳は、その著『戴恩記』に乗阿との接触があったことを述べている。また、青年時代の林羅山と『源氏物語』をめぐる論争をしたこともあったという。このような著名な文人が山形を訪れて滞在し、最上一門や周辺の人々を指導した事実は、山形の文化史を考察する上で重要な示唆を与えるものだ。
 「光明寺由来記」によると、義光は在京中に乗阿から『源氏物語』を学び、切り紙(免許状)を伝授されたとされる。これが機縁となって義光の要請を受け、山形に来て光明寺十八世住職となった。小高敏郎博士の大著『近世初期文壇の研究』(昭和三十九/明治書院)では、乗阿が出羽に下ったときの「道之記」について、「あるはるずだが、目賭の機を得ない」と残念がっておられ、また、乗阿が後陽成上皇や智仁親王らとともに詠じた「御当座百首」一巻は、戦災に遭って失われたのではないかとの懸念を述べておられる。
 ところがこの両作品が、ともに光明寺に蔵されていたのである。

【二】
 以下、『最上下向道記』による。
 七三歳の乗阿は、慶長八(一六〇三)年五月十二日(太陽暦六月二十一日)の昼に京都を発つ。道中さまざまな出来事を経ながら、越後本庄(村上市)を経て出羽に入る。



 「羽州庄内、今あらため鶴岡というに到れば、御城の普請の奉行衆とて両三人、今行くべき先々の道のことまで沙汰せらる」……「亀ケ崎」(酒田市)「鶴ケ岡」(鶴岡)と佳名に改められたのは同年三月とされるから、乗阿は地名が変わって間もないころにここを通ったことになる。一泊して翌日は最上川の舟に乗り、ほどなく山形に着く。
 山形については、「造り並べたる家々数多く、柳・桜植えぬ門もなく、見る目輝くばかりなれば、覚えずしてまたもとの都のうちに帰り入るかと、聞きしにはまさりはべりぬ」と称賛した。太守義光への儀礼的挨拶が加わっているとしても、この時代の山形は美しかった。最上五七万石、全国屈指の大大名の城下である。義光自身が京文化への憧憬をいだき、山形にすぐれた文化を移入しようと努めていた、まさにその時代である。乗阿の描写は、美しい山形を語って印象深い。

【三】
 乗阿の山形滞在は足掛け三年という短い期間だったが、その間最上一門は光明寺において、しばしば彼の指導のもとで連歌会を開催した(「由来記」)。東根城主里見一家が連歌に熱心だったのは、この影響があったと見てもよい。城下の士庶、僧俗が芸術・文化に開眼
するきっかけとなった可能性もある。
 江戸時代の早い時期に、旧最上家臣の一人斎藤親盛(如儡子)は、名著『可笑記』を著した。本来貴族の行事だった人麿影供を、山形の町人が催した形跡もある。芭蕉来訪以前に、井上、富田、斎藤、松岡、豊田などという山形の住人たちが、座をつくって俳譜を楽しんでいた(落合晃氏『やまがた俳譜一人案内』)。捜せば、他にも事例があるだろう。
 最上時代の山形の芸術文化を、ばらばらに切り離さず、義光に代表される山形人の精神の体現として改めて見直すとき、山形の歴史はいちだんとふくよかになるに違いない。

■執筆:片桐繁雄(元最上義光歴史館事務局長)「館だより14」より
2020/04/15 09:39 (C) 最上義光歴史館