最上義光歴史館/一枚の史料

最上義光歴史館
一枚の史料
◆◇◆一枚の史料◆◇◆
       
 昨年、平成二十年十月十一日、飯豊町で一枚物の古い書き付けを見たときは、鳥膚立つ思いがした。最上・直江を語るフォーラム会場で後部の机上に無造作に広げて置かれたものである。表題は、

慶長五年十月二日最上御陳ママ討死之事

とあり、最初に「伊藤豊後 将」を掲げ、以下家来「家老高橋主馬」ら十八人の名前が列記されている。これらのうち十七人が討死したというのだ。単純に姓名だけが列記されており、同姓二人ずつの四組は同一家族であろうか。もしそうだとしたら二人の男を襲った一家は崩壊である。
 彼らが暮らしていた岩倉は、置賜白川の上流、谷間の平地を拓いて人が住みついてできた山村である。三方に険しい山をめぐらし、外敵の侵入など受けることなく、穏やかに暮らせる土地だ。『邑鑑』によれば、慶長末年ごろの家数は二十九戸、住民は百十一人。慶長五年ころもそう変わりはあるまい。そんな小さな村から直江の命令で徴発され、最上へ遠征した男たちのうち、伊藤豊後ら十八人が戦死し、ふたたび家族の前に姿を見せることはなかったのだ。これだけの人数なら、村の男のほとんどが死んだのかもしれぬ。
 『越境記』によると、伊藤豊後は 「地下馬上」という格付けであった。村衆を引率して八ツ沼城(現朝日町)攻略に参加し、立木川(今の朝日川)を真っ先に渡って力戦したが、八ツ沼勢に取り囲まれて討ち死にした。これは一番乗りの大手柄であったという。
 この文書の末尾には、次のようなことがメモされている。
 生き残ったのは山川儀助だけ。病で出陣できなかった豊後の嫡子伊藤日向は、父の手柄を認められ、本復の後儀助を連れて「百石御知行を拝領、岩倉村に住居つかまつる者なり」とある。
 日付の十月二日は、直江軍が最上勢に追われて敗走している最中だった。みな先を争って逃げ惑い、統制は失われ、戦う意欲も抵抗する力もなくなる。そこを狙って地元農民が群盗と化して襲いかかり、着物持ち物一切合切を奪い取るのである。へたに反抗すれば命も奪われる。この十八人もそんな悲惨な状況下に置かれたのであろう。別史料によると部隊長格だった鮎貝城将・中条三盛も農民集団に襲われて痛手を負い、これが原因で数年後に死んだといわれる。
 名前だけ並べたに過ぎない一枚の文書には、長編の軍記物語にも見られぬ迫力があった。
 「最上で負けて逃げてきてから、死んだ人をお弔いする集まりが、毎月二十三日の夜に行われていたものです」
 持ち主の高齢の女性が訥々と語ってくれた言葉にも、不思議な迫力があった。

■執筆:長谷勘三郎「歴史館だより16/研究余滴9」より
2020/04/14 16:11 (C) 最上義光歴史館