最上義光歴史館/「最上家信奉納の猿曳駒図絵馬について」 佐藤 琴

最上義光歴史館
「最上家信奉納の猿曳駒図絵馬について」 佐藤 琴
最上家信奉納の猿曳駒図絵馬について
 
 山形大学附属博物館は平成三十年度公開講座として、「山形大学の最上義光研究」を開催した。山形大学には、歴史学はもちろんのこと、建築史、文学史、美術史など、さまざまな観点からの最上義光研究が蓄積されている。その成果を市民に還元すべきと考えたからだ。日本美術史を専門とする筆者も「最上家ゆかりの絵画」と題して、一コマを担当した。その準備過程で筆者は山形市指定有形文化財「猿曳駒図」〈日枝神社(山形市香澄町)蔵〉を調査する機会を得た。本稿は調査において得られた知見を報告するものである。
 最上家信(一六〇六〜三一)は最上義光の孫、父家親の突然の死により十二才で家督を相続したが、六年足らずで改易された、山形藩における最上家最後の藩主である。家信の足跡を記す資料は少ないが、家信が奉納した絵馬が山形に二件現存していることに加えて、重要文化財に指定されている伝狩野宗秀筆「遊行上人縁起絵巻」〈光明寺(山形市七日町)蔵〉を、死去の直前である寛永八年(一六三一)七月十五日に再奉納するなど、山形の近世絵画史を語るうえで見逃せない人物である。「遊行上人縁起絵巻」については、松尾剛次氏が、最上義光が光明寺の本丸から東大手門前への移転という慶事に合わせて文禄三年(一八五九)に奉納したが、火災などで光明寺が無住となり、最上家に戻されていたものを、新住持の着任後初めて迎える盆であり、義光の十七回忌に再度奉納したものであるとしている(「光明寺本『遊行上人縁起絵』をめぐる謎を解く」『歴史館だより』二十一 二〇一四年)。また、家信が奉納したと伝えられる天童市指定有形文化財「神馬図」〈愛宕神社(天童市北目)〉については、宮島新一氏が家信の動向を伝える数少ない記録を分析し、元和四年(一六一八)午(うま)年の奉納説を提示した(「最上家信奉納の神馬図」『歴史館だより』十七 二〇一〇年)。その論のなかで「猿曳駒図」が元和六年(一六二〇)の申(さる)年に奉納されたことを引き合いに出している。しかし、それ以上の言及はない。何故ならば、ある意味では「猿曳駒図」には問題点がないからである。
 「猿曳駒図」(以下「本図」と称す)は、一辺が約二十六センチのほぼ正方形の三枚の板に、馬具を装着した馬と二本脚で立つ猿が描かれている絵馬である。背景には金泥が塗られており、馬と猿を避けて、三枚それぞれに「おさめたてまつる馬形壱疋 元和六年十月十六日 家信」の墨書がある。別の記録からもこの年に家信が山形に居たことは判明しており、在国中の奉納であることがわかる。
 また、渡辺信三氏によれば、本図が奉納された日枝神社は、斯波兼頼が山形城築城した折、近江国坂本(滋賀県大津市)の日吉大社を城内に分祀したものであり、家信が本図を奉納した時には二の丸にあったという(渡辺信三『やまがたの絵馬』 やまがた散歩社 一九八五年)。渡辺氏は家信の苦境から、本図は御家安泰を祈願して奉納されたものだとし、「部下に対しいかに所領をあたえ、懐柔して、忠勤に励むようにさせたか、三面の絵馬は暗にそれを表現している」と述べた。本稿ではこれらの論を踏まえ、これまで言及されてこなかった美術史的観点、特に猿と馬が意味することについて検討していきたい。
 まず、絵馬とはその名のとおり、馬を描いた絵のことであり、生きた馬を神に奉納する習俗が絵によって代用され、発展したものと推測されている。室町時代末期から徐々に馬以外の画題が絵馬に用いられるようになったことが数少ない遺品からわかっている。
次に、馬とともに描かれた猿についてである。猿は馬と関係が深い。由来は中国であるが、平安時代から良馬の飼育のために厩に猿を飼うことが行われていたという。猿が厩につながれている様子を描いた「石山寺縁起絵巻」(鎌倉時代)、「厩図屏風」(室町時代)などの絵画もある。また、猿は日吉大社において神の使いとされている。日枝神社に猿と馬を描いた絵馬を奉納することは不思議ではない。しかし、本図に込められた意味を最上家の問題から読み解く前に、猿と馬が描かれた他の絵画を検証すべきであろう。
 そもそも、中国で生まれ日本にもたらされた「花鳥画」と総称される動植物を描いた絵画は、花や鳥に吉祥の意味を込めて制作されたものである。馬と猿の組み合わせでは「馬上封侯」という絵がある。「馬上」とは「すぐ」という意味、「猿猴」は「候」と同じ読みであり、「(諸)候に封じられる」ことを表している。つまり、「昇進祈願」の画題である。この場合、猿は馬の上に乗る姿で描かれることが通例であり、本図はあてはまらない。
 他の画題を探してみると「意馬心猿図」と呼ばれる一群があった(岩井宏実『ものと人間の文化史 絵馬』 法政大学出版局 一九七四年)。「意馬心猿」とは仏教用語であり、『大辞林 第三版』によると「妄念や煩悩が激しく、心の乱れが抑えられないのを、奔馬や野猿が騒ぐのを抑えがたいさまにたとえた語」であるという。作例としては清水寺(京都府)にある二面が重要である。狩野元信の筆と伝えられる絵馬は金地に杭につながれた馬とその綱に手をかける猿が描かれており、金地の本図(「馬曳駒図」)と近い。また、「寛永拾四年(一六三八)」の年紀と「山雪」の印章がある絵馬には、どこかにつながれた手綱をピンとはり、前脚をあげる馬の腹巻に猿が描かれている。絵馬における「意馬心猿」という画題がどこまで遡るかは明らかにすることはできない。しかし、逆に言えば江戸時代前期の作とみられるこれらの絵馬が存在することにより、本図が元和六年(一六二〇)の申(さる)年に家信によって奉納されたことを疑う必要はないといえるだろう。そして、本図は日枝神社の神の使いである猿によって、御しがたい煩悩を抑えるという「意馬心猿」を踏まえた作品であると考えるべきである。
 次に検証すべき点は三枚一セットであることの意味である。渡辺氏が指摘するように、本図の上部には釘穴が二つあり、どこかに打ちつけられていた。しかし、それが奉納時のものかは断言できない。同じく三枚がどのように配置されていたのかも不明である。褐色の液体による汚れがあるが、それも奉納時の配置を復元する決め手とはならない。そもそも三枚一セットであったのか、という点も確認が必要である。『山形市史 別巻二 生活文化編』(一九七六年)などに掲載されている図版の配置で、左からA、B、Cとし、画面について詳しくみていこう。


猿曳駒図A
Aは頭を向かって左に向けた馬を描く。猿は手綱を握って馬の顔を見つめている。


猿曳駒図B
Bでは馬は向かって右に頭をむけており、その右側に猿がいる。猿のまえに頭を垂れ、猿は馬の首を撫でている。


猿曳駒図C
Cの馬は、体を左に向けているが、頭は右を向いている。その右側に馬の手綱を手に右に向かって歩き出そうとしている猿が、振り向いて馬の顔を見ている。

 渡辺氏の指摘するように、この三枚は物事の推移を表している。馬と猿が出会い、神の使いである猿に諭され、神馬として歩みだしていくようすを描いたものだろう。この推測を補強するものとして、馬の鞍と髭の描写をあげたい。まず、AとBとでは鞍に布がかけられている。しかし、Cには布がなく、金蒔絵が施された鞍が描かれている。


Aの馬の鞍


Bの馬の鞍


Cの馬の鞍

 もう一つは馬の髭である。AとBの馬の口の周りには髭が描かれている。しかし、Cには髭が描かれていない。鞍もA、BとCでは異なっていることから、Cに髭を描き忘れたと見ることはできない。また、馬の色が違うことから、同一馬によるものではないと考える向きもあろう。しかし、近代以前の東洋絵画において、物事の推移を複数の動物で表す場合に動物の毛色を変化させるのは不自然ではない。例として禅の修行を「逃げた牛を飼いならす過程」で表した「十牛図」(北宋に成立)があげられる。作例として著名な伝周文筆「十牛図」(相国寺蔵)に登場する牛たちの毛色は同一ではない。


Aの馬の口


Bの馬の口


Cの馬の口

 そして、小型絵馬の三枚一セットでの奉納については興味深い事例がある。東寺の正御影供の日に灌頂院の閼伽井に掲げられる朱一色の馬の絵馬である(岩井前掲書)。中央が本年、右が昨年、左は一昨年を表しており、弘法大師が描いたとされる馬のかたちを比較して、その年の作物の出来を占うという。現在も行われているこの行事と本図と関係については資料が探せていないが、本図が奉納当初から三枚一セットであり、物事の推移を表している可能性は高い。
 以上、「猿曳駒図」について美術史的な考察を行い、画題は「意馬心猿」であり、三枚一セットで物事の推移を表していることを指摘した。神の使いである猿によって欲望を抑える、つまり、最上家信が善政を行うことを祈念した奉納であったことはいえるであろう。

■執筆:佐藤 琴(山形大学学術研究院 准教授)「歴史館だより26」より
2020/01/04 13:00 (C) 最上義光歴史館