最上義光歴史館/「『連歌の概要』 ―義光の一座した作品に触れながら」 名子喜久雄

最上義光歴史館
「『連歌の概要』 ―義光の一座した作品に触れながら」 名子喜久雄
「連歌の概要」 ―義光の一座した作品に触れながら

 ある時代に隆盛を極めた文芸ジャンルが、時の流れにより、創造のエネルギーを失ってしまうことは、多い。平安時代の物語・中世の軍記は、その代表である。(創造のエネルギーを失いかけても、変質することにより今日まで、人々に何らかの形で継承されたものに能・歌舞伎がある。和歌・俳諧は「改良」されることにより、短歌・俳句となった)
 連歌は、創造のエネルギーを失ったジャンルの一例であろう。その発生を、連歌を「筑波の道」と称することからわかることだが、倭建命の東国での御火焼の翁との問答
  新治 筑波をすぎて 幾夜か寝つる
  かがなべて 夜には九夜 日には十日を
とするのが通例である。(五七五・七七の歌体でない所から、「万葉集」巻八の家持と尼の唱和とする考えもある)
 五七五(長句)と七七(短句)のいづれが先行しても良いが、前記のように1セットで終わるものを「短連歌」という。先に詠まれた句(「前句」)に、付けられた句が「付句」である。その付句に、次の付句を続けて、その連続が、一定の句数(三十六・五十・百)になったものを「長連歌(鎖連歌とも)」と称する。
 前記の倭建命の例のように、連歌は和歌よりは、会話性・問答が強かった。鎌倉期以後中世を通じて大流行するが、好者は無論のこと、連歌の名人が、宗祇・紹巴の如く身分卑しき者から輩出する。
 ところで、長連歌を人々が詠む折に、安易な句作を嫌って、様々に制約を加えるようになった。その制約を、まとめたものが「式目
」である。「式目」は、時代の中で一部手直しが行われた。それが「新式」である。これらを心得ていなければ、連歌の場(座)に居ることは難しい。
 「式目」を人々に教授したりした、連歌の職業的名人が宗匠である。連歌の座を差配するだけでなく、源氏物語・古今集などの古典文学の解釈の伝承者でもあった。


「連歌新式」最上義光注 里村紹巴加筆(当館蔵)

 さて、義光も一座した「慶長元年(1596)十二月二十五日 賦何舩連歌」を素材として、いささかながら、連歌の作り方を略説したい。
 発句(第一句目)は、

  雪晴(れ)て行く水遠き末野哉 唱叱

 詠作の季節(冬十二月)に応じて、眼前の景を詠みこむ。詠み人は、主客が普通。貴人の場合もある。
 脇句(第二句目)は、

  風さえつつも明(け)渡る山  光高

 発句の世界を受け、季節を同じくして、かつ、発句に詠まれていないもの(「風」と、「末野」の反対方向にある「山」の明け方の時間)を詠む。普通は亭主が詠者。(光高が亭主かは存擬)
 第三(第三句目)は、

  引(く)雲にはなるゝ月の影澄(み)て  光

 第三句目を、特に第三と称す。第四句から最後の句(「挙句」)の直前までを、一部を除き、「平句」という。第三は、発句・脇句の世界を転じ、作中世界を広げる。風に雲が動き日が姿を見せる。空に視線が移った。貴人(ここでは義光・「字名「光」)が詠む。
発句が貴人の時は主客。


「賦何船連歌」初折の表部分(当館蔵)

 このように連歌の世界は展開する。挙句で世の千秋万歳を寿ぎ、連歌は終わる。

 ※現在入手しやすい参考書
 「連歌辞典」 廣木一人 平成22年 東京堂出版
 「連歌とは何か」 綿抜豊昭 平成18年 講談社
  (後者は、義光についての言及もある)  

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより20」より       

2018/11/18 10:52 (C) 最上義光歴史館