最上義光歴史館/「『三部抄』について ―内容と成立を中心に―」 名子喜久雄

最上義光歴史館
「『三部抄』について ―内容と成立を中心に―」 名子喜久雄
「三部抄」について ―内容と成立を中心に―


 一 「抄」とは何か
 現代で「抄」と言えば、「ある作品などから精進したり、抜き出したりしたもの」の意味で用いられる。ところが、古典では、以下の意味でも使用されている。

ア さまざまなものを集成したもの
イ 注釈書
ウ 現代で言えば、ノートにあたる聞書

 西行に仮託された説話集「撰集抄」、鴨長明の歌論集「無名抄」は、アの例である。江戸時代・元禄期の国学者北村季吟が著した「源氏物語湖月抄」は、イの例である。また、室町期の五山僧は、多くのウに該当する「抄物」を残した。(イ・ウの内容は重なることもある)
 この「三部抄」ではアの意味で使われている。すなわち「三部」の書を集約したものの意となる。

 二 内 容
 書名は「三部抄」であるが、その内容は、いずれも新古今時代の大歌人にして古典学者藤原定家と何らかの形で関係する五種の書から成る。


 一は、「詠歌大概(えいがのたいがい)」。建保三〜四年(一二一五〜六)に後鳥羽院皇子・尊快法親王(十二〜三歳)のために書いた。初学者のための、和歌に対する心得・基本的な考えが記されている。


 二は、「秀歌躰大略(しゅうかていのたいりゃく)」。一とセットになっており、八代集の中から心がけて学ぶべき和歌を示している。(一・二はまとめて一書とされることが多い)小学館「新編日本古典文学全集・歌論集」に、口語訳も付されて所収。


 三は、「百人一首」。内容については周知のことと思う。文暦二年(一二三五)に、定家は、愛息為家の舅たる宇都宮入道頼綱の求めに応じて、「百人一首」の基盤となる百一首から成る「百人秀歌」を選定した。その後、定家または為家が、「百人秀歌」から三首を切り出し、代りに後鳥羽院・順徳院の作を入れたものである。「百人一首」の完成者は、定家・為家の二説あって定まっていない。多くの解説書がある。


 四は、「未来記」。そもそもこの書名は、聖徳太子などの特別な力を有した人物の、未来を予言した書に使われる。ここでは、定家が、後世に和歌が衰えた時の戒めとして、詠むべきではない例を示したものとされる。
無論、定家仮託の偽書で鎌倉末までの成立とされる。作者は不明。


 五は、「雨中吟(うちゅうぎん)」。四と同じ目的で、定家が自作を集めたとされるが、現在は、孫で一流を成した冷泉家周辺で、延慶三年(一三一〇)までに成立したらしいと考えられている。(一部の作は、定家の作として、玉葉集などに入っている)
 四・五は、一まとめとされることが多く、五種の書の集約ながら「三部抄」と呼ぶ。四・五は、河出書房新社・久保田淳編著「藤原定家全歌集下」に略注などを付して所収。図書館などで手にとっていただきたい。
 
 三 成立と流布など
 この五種の書は、十五世紀後半には「三部抄」としてまとめられていたと考えられる。誰がまとめたかは不明。
 為家の子の為氏を始祖とする二条家(中世和歌の主流派)は、室町中期には絶える。ただし、その弟子たちの流れ(二条流・兼好法師も宗祇も紹巴も、それらの流れを受ける)において「三部抄」は、和歌の入門書・戒めの例を示した書として重んじられていく。
 今川義元は、信長に敗死したため文弱の人とされ評価は低いが、これらの人々は武家貴族の末裔を自任しており、自分たちが宮廷文化(和歌・連歌・物語など)を学ぶことは当然と考えていた。
 その際、宗祇・紹巴のような連歌師が、身につけた古典の教養を、地方の武家貴族の末裔たちにも伝えたのである。この時代、その教養は、誰が師であるかが大切であった。その中で、紹巴が最上家のために筆を執ったことは、実に意味のあることであった。

■執筆:名子喜久雄(山形大学名誉教授)「歴史館だより24」特集「三部抄」より
2017/06/01 11:20 (C) 最上義光歴史館