最上義光歴史館/「軍記史料・記録類における最上義光の戦歴」 内野広一

最上義光歴史館
「軍記史料・記録類における最上義光の戦歴」 内野広一
 「軍記史料・記録類における最上義光の戦歴」

 本稿では、軍記史料や諸記録に記載されている最上義光の戦歴を列挙する。
 本来であれば、一次史料を用いて検討すべき所ではあるが、最上家関連の史料は散逸が激しく、それのみを用いて義光の戦歴を追うことは困難である。ゆえに、軍記史料の中でも比較的成立年代が古く、記載内容に信頼の置ける部分が多数あると考えられている「最上記」「奥羽永慶軍記」やその他記録類を用いた上で、その記載内容に関連する一次史料を挙げることにより史実上確かにその合戦が存在した事実を補強することとした。

凡 例
 下表では、「最上義光が直接指揮し、総大将をつとめたとみられる」記述がある合戦のみを抜粋した。

【合戦名】 
 主戦場となった城名もしくは地名+合戦とした。

【勝 敗】 
 義光攻撃側…敵大将を討ち取る、城を落とすなどした場合勝利、戦略的目標を達成できず損害を出して撤退した場合は敗北と定義し、当てはまらない場合引き分けとした。
 義光防衛側…攻撃側の戦略目的を達成させず、撤退に追い込んだ場合勝利。攻撃側が最上家の軍勢を打ち破る、城を落とすなどした場合を敗北と定義した。

【敵総大将】 
 敵方の総大将を記した。

【年 代】 
 推定年代を記した。

【「最上記」「永慶」】 
 『最上記』『奥羽永慶軍記』に記載の有無を記した。

【備 考】 
 記載内容の裏づけとなる書状史料や、記録類を記した。また、直接の史料は存在しないものの、その後当該する地域が最上家の領国となっている事が傍証となる合戦はその旨を記した。



※1 この二つの合戦は、軍記史料には記されてはいないものの、『伊達輝宗日記』に経過が詳細に記されている合戦であることからこの表に加えた。係争地域が義光の本拠周辺である現在の山形市・上山市にかけてであることと、相手方が義光の父義守と反義光派の国人衆ならびに伊達輝宗であり、義光にとって危急存亡の状況であったことから、義光自身が当合戦の指揮を執ったことは明白であろう。

※2 近年の研究では、柏木山合戦は存在しなかったのではないかとの論が主流である。おそらく、天正2(1574)年に義光と伊達輝宗が中山・楢下において合戦した事(※1)と、天正16(1588)年に義光と伊達政宗が合戦し、義姫がその仲裁を行った事実(戸蒔文書ほか)が混同されたものであろう。

※3 軍記史料では、鮭延攻めは義光が総大将をつとめたとされているが、実際は重臣の氏家守棟が最上地域一帯の経略を実行したようである(楓軒文書纂所所収文書)。

※4 軍記史料では、敵方大将を武藤光安としているが、「悪屋形」と呼称されていることから、これは武藤義氏の事を指していると考えられる。義氏は天正11年(1583)年に側近の前森蔵人に背かれ自害した。義光が直接の武力をもって庄内を経略した天正15(1587)年には、その跡目は弟の義興が継いでいた。義光が庄内を攻めて武藤義興を攻め滅ぼした事と、義氏敗死の事実とが混同されたものであろう。

■執筆:内野広一(地方史研究家)「歴史館だより22」より

2016/02/06 10:00 (C) 最上義光歴史館