最上義光歴史館/最上家臣余録 【氏家守棟 (10)】

最上義光歴史館
最上家臣余録 【氏家守棟 (10)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜


【氏家守棟(10)】


 前述したように、天正九年の五月には、鮭延氏が最上氏に対して抵抗しており、それに対して氏家守棟が村山郡へ派遣されたのは確実である。史料犬鮑瞳任靴茲Α

 史料検‥契偽綰五月二日付 最上義光書状(注19)
  鮭延就致我侭、氏家尾張守為代職指遣、及進陣候キ、
  其方事別而無曲之旨不存候處、真室へ同心之事如何ニ令存候處、
  今度罷出被致奉公、於予祝着に存候、
  依之態計我々着候着物並袴指越候、一儀迄候、
  將又為祝儀此元へ可被登候段可被存候歟、返々無用候、
  彼袴被為着、細々氏尾所へ被罷越可然候、万々期後音之時候間、
  早々、恐々謹言、
      天正九
        五月二日   義光(鼎形黒影印)
       庭月殿

 と、庭月氏が最上家に味方した事を謝すると共に着物・袴を贈っている。「細々氏尾所へ被罷越可然候、万々期後音之時候間、」とあることから、氏家は庭月氏をはじめとした最上方の国人衆と談合しつつ進攻しており、軍事指揮権においても国人衆より上位の存在であると推察できる。鮭延氏の他に、周辺には清水氏・日野氏らの国人達が割拠していたが、清水氏は元来最上家との繋がりが強く、既に清水勢は最上氏の指揮下にあったと見ていいだろう。新庄の日野氏は、天正二(1574)年の最上家相続抗争の段階では反義光方の旗色を鮮明にしており、武藤氏の強い影響下にあった時期もあるが(注26)庭月氏とほぼ同時期に最上家に臣従したと推察される。あるいは、日野氏懐柔に当たったのも氏家であったろうか。直接的にその事実を示す史料は見当たらないが、その可能性も少なからずあるように思われる。
 
 清水氏・日野氏・庭月氏ら周辺在地領主が最上家の傘下に降った事により、鮭延氏は孤立した。五月中には、最上家に降伏している事が確認される(注27)。その後、氏家は当地に留まり戦後処理を担当したと考えられるが、翌天正十年三月に発給された武藤氏侵攻に対応して庭月氏へ宛てた最上義光書状を参照してみると、

 史料(注28)
  庄中へ鮭延典膳さし越候処ニ、手まへ無人数のよし申候間、
  其方之事者彼仁ニさし添、何分ニもよき様ニ談合申被候て、
  いけんニまかせられ、本意のとりなし此節可相極候、
  吉事重而、恐々謹言、
     三月廿二日  義光(鼎形黒 印影)
       庭月和泉守殿

 文面を見る限り、氏家が当地に滞在しているならば当然無ければならない「氏尾と相談」という文言が無く、「鮭延典膳と談合し」対処せよ、と解釈できることから、天正十年三月段階では氏家は村山郡にはおらず、山形へ戻っていた可能性を指摘できよう。

 天正十年四月に発給された書状にも、

 史料后 ̄月十日付 最上義光書状(注21)
  今般鮭延為代官、氏家尾張守相下候、依之自御正印之來札、
  喜悦令存候、彼地之事少敵之儀候間、
  無幾程可勝手意事眼前候、爰元無心元有間敷候、
  右細事氏家尾張守委細可申越候条、不能詳候、心事期後音許候、
  恐々謹言、
  追而、早速一左右ニあつかり候、悦喜此事候、以上、
      卯月十日  義光(鼎形黒印)

「今般鮭延代官の為、氏家尾張守相下候、」とあるように「改めて」氏家を最上に向かわせていると読み取れる。
〈続〉

(注26) 『山形県史 古代中世史料1』
    歴代古案所収文書 八月十六日付武藤義氏書状写
(注27) 『山形県史 古代中世史料1』
    経眼古文書所収文書 梅月十九日付最上義光書状
(注28) 『山形県史 古代中世史料1』
    楓軒文書纂所集文書卯月十日付最上義光書状


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2012/03/23 11:51 (C) 最上義光歴史館