最上義光歴史館/最上家臣余録 【氏家守棟 (7)】

最上義光歴史館
最上家臣余録 【氏家守棟 (7)】
最上家臣余録 〜知られざる最上家臣たちの姿〜 


【氏家守棟(7)】


 天正九(1581)年時点に至り、書状史料の上で氏家尾張守の動向が明確化する。
 義光は、北進政策の一環として鮭延城主の鮭延秀綱を攻め、降伏させている。

   史料検‥契偽綰五月二日付 最上義光書状(注19)
    鮭延就致我侭、氏家尾張守為代職指遣、及進陣候キ、
    其方事別而無曲之旨不存候處、真室へ同心之事如何ニ令存候處、
    今度罷出被致奉公、於予祝着に存候、依之態計我々着候着物並
    袴指越候、一儀迄候、將又為祝儀此元へ可被登候段可被存候歟、
    返々無用候、彼袴被為着、細々氏尾所へ被罷越可然候、
    万々期後音之時候間、早々、恐々謹言、
      天正九
        五月二日   義光(鼎形黒影印)
       庭月殿

 この書状から読み取れるように、氏家守棟は、義光の「代職」となり攻略軍の総大将として出陣しているようである。この書状の宛先である「庭月殿」は鮭延城にほど近い庭月城主で、秀綱にかなり近い立場にあった人物と見られるが、「今度罷出被致奉公」と義光への転向を決めたようだ。このように、最上軍は調略により村山郡(現在の最上地方)国人領主の連携を切り崩して秀綱を孤立させていったと考えられるが、「細々氏尾所へ被罷越可然候」とあることから、庭月氏に限らず、義光に降伏した村山国人は、守棟の陣所に参集していたのだろう。守棟が、村山国人と連携して鮭延秀綱を追い詰めていく様子が想像される。

 鮭延秀綱の降伏により、村山郡を領国化することに成功した最上義光だったが、翌天正十(1582)年には庄内と村山の境で、大宝寺武藤氏との抗争が発生したようである。同年三月、義光は鮭延秀綱への援軍として庭月城主の庭月和泉守へ出陣を求めている(注20)が、そのような情勢の中、氏家尾張守は真室一帯の「代官」としての職務に就いていた。

   史料后 ̄月十日付 最上義光書状(注21)
    今般鮭延為代官、氏家尾張守相下候、依之自御正印之來札、
    喜悦令存候、彼地之事少敵之儀候間、無幾程可勝手意事眼前候、
    爰元無心元有間敷候、右細事氏家尾張守委細可申越候条、
    不能詳候、心事期後音許候、恐々謹言、
     追而、早速一左右ニあつかり候、悦喜此事候、以上、
      卯月十日  義光(鼎形黒印)
       和田美作守殿

 ここにおいて、氏家が任じられた「代官」の持つ意味合いを少し検討したい。
〈続〉

(注19) 『山形県史 古代中世史料1』
    楓軒文書纂所集文書所収 天正九年五月二日付最上義光書状
(注20) 『山形県史 古代中世史料1』
    楓軒文書纂所集文書所収 三月廿二日付最上義光書状
(注21) 『山形県史 古代中世史料1』
    安部文書所収 卯月十日付最上義光書状


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2012/03/09 16:41 (C) 最上義光歴史館