最上義光歴史館/山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【六 赦免の沙汰ある日まで】

最上義光歴史館
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【六 赦免の沙汰ある日まで】
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【六 赦免の沙汰ある日まで】

 『大日本史料・12編47』の元和八年八月二十一日の条の内から、改易後に福山藩水野家に預けられた柴橋石見に関わる記事の中で、編者の注記として「義俊、家ヲ嗣グコト、元和三年六月ノ条ニ、幕府ヨリ目付ヲ付サルルコト、同六年三月十八日ノ条ニ、赦サレテ徳川家光ニ拝謁スルコト、寛永五年九月十二日ノ条ニ、卒スルコト、同八年十一月二十二日ノ条ニ見ユ」と記している。
 現在、この史料の寛永年間の記録は、未だ刊本にはなってはおらず、編者は稿本の寛永年間の記録から義俊を拾い、参考のために柴橋石見の記事の中に、付記したものと思われる。義俊赦免を伝える根本史料については、管見の限りに於いては、この注記の記事のみである。引き続き調査を続けていきたい。
 改易処分に付せられた義俊が、一定の期間中は定められた罰則に従わねばならなかったのは当然であり、赦免の日を迎える寛永五年(1628)九月の頃まで、蟄居謹慎の日々を過ごしていたことであろう。しかし、この改易後の義俊の消息については、現今の諸書は次のように述べている。

(イ)義俊は幕府の奏者番に取立てられ、桔梗門内下馬先の屋敷から出勤登城した。
(ロ)江州・参州で一万石の捨扶持を与えられ、幕府の交代寄合に任ぜられた。
(ハ)近江・参河の内で一万石を与えられ、幕府の奏者番に任ぜられた。義俊は封地に赴任せず江戸藩邸に居た。最上家上屋敷は江戸城桔梗門下馬先にあり、外に柳原河岸に中屋敷、本所石原大川端に抱え屋敷があった[注1]。

 このような記事を読むと、とうてい事実を伝えているものとは思われないのである。先ずは改易処分を受けた咎人が、早々と将軍と接する奏者番の[注2]に就けるだろうか。また小なりとも一万石の大名が旗本身分の席である交代寄合に組入れられるのであろうか。最上家江戸屋敷は[慶長江戸絵図[注3]]などを見ても大手前に在り、桔梗門内ではない。そして義光が建設した広大な屋敷に、一万石に転落した最上家が引続き居住できるものなのか、常識的に考えてみても無理な話しである。これが現在に至るまでの間、語り伝えられて来ていたのである。
 伊達家史料の[伊達秘鑑]は「江戸浅草ノ下屋敷逼塞仰付ラル」と伝えている。この江戸屋敷については、寛永年間の[武州豊嶋郡江戸庄図[注4]]には、大手前の最上屋敷には、最上家退散後の山形に入った鳥居左京忠政の子息の忠恒の名があり、神田川北岸の柳原の一角に、「最上源五郎」と義俊の名が見えている。義光が建設した広大な大手前の屋敷は、皮肉にも鳥居家の占めるところとなった。
 それは寛永元年(1624)四月廿九日付の細川忠利書状[注5]を見ると、「井上主計殿へ鳥居左京殿屋敷を被達候、左京殿ヘハ最上屋敷を被遭候、又本上州屋敷をハ、酒井讃岐殿・稲葉右衛門両人被遣候事」と、鳥居家の最上屋敷への屋敷替えを伝えている。このように、最上家は大手前の屋敷を明け渡し、柳原河岸の屋敷に最上家一万石の居を定めた。義光在世当時の最上屋敷周辺には、松平忠輝、青山伯耆、鳥居土佐、土井利勝、板倉周防などの親藩・譜代の屋敷で占められていた。その中で、小大名に転落した最上家が、依然として居を構えて居られる筈はないのである。また当時は浅草川を挟んだ以東の本所・深川の地に、新しく町屋の成立と武家地の増投を見たのは、明暦の大火以後のことであり、義俊の頃までは、柳原河岸の屋敷と二ケ所であったと考えられる。大手前の屋敷を引払った義俊は、この屋敷で歳月を過ごし、そして「長々相煩」と不遇の生涯を閉じた。
 改易から一年後の閏八月、先の藩主義俊を気遣ってのことであろうか、最上家の厚き庇護のもとにあった慈恩寺からの便りと進物に対し、義俊は喜びの返書を与えている[注6]。藩主時代の元和四年(1618)八月、「大堂建立山形源五郎殿義光公孫子也[注7]」と、短き藩主時代ではあったが、慈恩寺には大きな事跡を残していた。

       以上
遠路態飛札、殊更白布一端給候、喜悦ニ候、何様重而登之節可申候、謹言
       最源五
    閏八月十三日  家信(花押)
   慈恩寺
     別当坊  まいる

 この書状から、義俊在世の頃の閏八月は元和九年(1623)にあたる。その署名が未だ家信であることから、義俊に改名するのは寛永に入ってからであろう。この改易後の間もない頃の、江戸に於ける義俊の動静を、僅かながらも寒松の日記から知ることができる。  

(元和九年)正月小 廿五日 晴 遣益於最源第与野□十大夫、
(注、この年の正月十日、江戸入りした寒松は十二日に登城し恒例の年筮を献上した。そして、弟子の益子を最上邸に遣わした。謹慎中の義俊に対しては面会は許されず、弟子を遣わし恒例の年筮を献上したのであろう)

(寛永元年)正月小 廿一日 快晴 最源五段子(緞子)
(注、この日の記事を見ると、各所より多くの到来物があったことを記している。義俊も緞子を贈っている。おそらくは年頭の年筮献上に対しての礼であったのであろう)
 
(寛永二年)正月大 十九日 雨 憑侶(託す)庵進年筮於最源、
(注、五日に江戸入りした寒松は、十日に登城し年筮を献上している。そして、十九日に友人で医師の侶庵に託し、義俊に年筮を献上した)

残存する寒松の日記からの、三年間に限られた間の記録ではあるが、罪を得た義俊の世聞から隔離された日々の中で、この一学僧との接触は大きな慰めになったであろう。しかし、寒松自身の直接の訪問は叶えられる筈もなく、周りの者に年筮を託すより外はなかった。父の家親との親交振りを想う寒松にしてみれば、その子の受けた社会的権威の失墜に対して、大いに心を痛めたことであろう。これ以後の死去に至る寛永八年(1631)まで、唯一残されている同七年(欠落箇所もあるが)の日記からは、義俊の姿を見つけることはできない。しかし、寒松を精神的な心の支えとして身近かに感じ、例年の如く寒松の献上する年筮に我が身を占い、明日の日に明るい期待を寄せながら、日々を過ごしていったのではなかろうか。
 また日記には、義俊からの進物があった前日(寛永元年正月廿日)に、佐倉藩土井家に預けられた鮭延越前守秀綱から、「鮭庭越州有使侶庵案内、楮(紙)二扁二 一」と、贈物があったことを伝えている。秀綱には元和五年(1619)に屏風画に詩文を書き入れたことがあり、最上家を離れた後も親交を重ねていたようだ。
寛永初期の頃かと思われるが、本城豊前守満茂とその養子(満茂弟の子)主水宛の義俊書状[注8]がある。
  
改年之為祝儀、鱈給候、目出祝着存候、尚永可申候、恐々、かしく
            最源五
   正月七日       義俊(花押)
     本城主水とのへ

   尚々祝儀迄扇子二進之候
新春之為祝儀鴈給候、毎年心付祝儀存候、将亦弥無事之由、弥書二候、尚里見内蔵允申候、恐々謹言
            最源五郎
              義俊(花押)
    正月廿二日
      本城豊前殿
          御返事
 
 山形藩時代には、家臣として最高の四万五千石を食んだ満茂は、改易後は幕府要人の前橋藩主酒井雅楽頭忠世に預けられた。その多くの旧臣達もそのまゝ召抱えられている。この満茂が最上騒動の際には義俊排斥の側に属していたのか、中立の立場にあったのかは判らないが、零落し果てた若き旧主の現状を察する時、過ぎし栄光の日々に思いを馳せながら、何かと暖かき手を差しのべていたのであろう。義俊の心情いかばかりであったろう。また次の二通の書状[注9]は何を語っているのだろうか。

     以上
今度御前相済候付而、書札令得其意候、上様江近日御目見へ可申候旨、必定之程推量有へく候、猶重而可申候、恐々謹言
            長源五
    九月廿一日     義俊(花押)
      本城主水殿
          御返事

     以上
今度両御所様御目見得申候付而、為祝儀生鮭到来、目出祝着ニ存候、尚里見内蔵允可申候、恐々、かしく
            最源五
              義俊(花押)
    十月十五日
      本城主水殿
          御返事

 この二通の書状の発給年月は寛永五年(1628)であろう。この年の九月十四日は、前将軍秀忠の御台所浅井氏の三年忌であった。この月、幕府は「十二日、幕府、山口重政親子、天野康宗兄弟、故大久保忠隣ノ子教隆・孝信ノ罪ヲ赦ス[注10]」として、恩赦を施している。この中には義俊の名は無いが、この時期に赦されたものと思われる。この中の大久保氏は、忠隣が慶長十九年(1614)に罪を得て改易され、子息ともども諸家に預けられていたのである。この年に赦され旧地に服されるまで、十四年の歳月を要している。義俊の改易事情が異なるとは申せ、義俊の罪に服した期間は短かったようだ。
 この九月の書状からは、前橋の本城主水に、勘気が解け将軍への御目見が近いことを伝え、十月の書状は、御目見を果たした後の主水よりの祝儀に対する返書であろう。このように、赦免の沙汰ある日までの間、「捨扶持一万石」の名ばかりの一大名に成り下がった義俊に対し、藩の運営に当たっていた嘗ての重臣連の内、誰がどのような気遣いを示していたであろうか。今のところ本城氏以外には見るべきものはない。
■執筆:小野末三

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[注]
1、『山形市史・中巻』・『山形の歴史』(川崎浩良)・『やまがた歴史と文化』(後藤嘉一)
2、[明良帯録・前編](『古事類苑』)
「君辺第一之職にて、言語怜利、英邁の仁にあらざれば堪えず」とあり、『時代考証事典』(稲垣史生)には「多くは寺社奉行の兼務、諸大名や旗本が将軍に御礼拝謁する時、奏者番は陪席し姓名と献上品を披露する……将軍の権威を輝かすのが役目であった」とある。改易処分を受けた義俊が、このような役目に就ける訳がないだろう。「交代寄合」にしても、「壱万石未満なれども、身分格式は大名に准じ、その身は在所に居住し隔年江戸参勤交代をなす、ゆえに交代寄合と称す」とあるように、これは大名の地位を失い、五千石の旗本に転落した義智以後の最上氏のことである。山形の先人達は、[最上千種]などの「元和八年八月廿三日御身上相潰候事、江戸より申来ル、近江国五千石被下置、交代寄合衆被仰付候」などの記事から、これらを義俊と解したのではなかろうか。
3、[慶長江戸絵図]
 都立中央図書館本のものが利用されている。図中の添書きに「慶長十一丙午年江戸御城立、云々」とあり、慶長十二、三年頃の様子を示すものという。義光在世の頃の江戸屋敷の位置を確認できる。
4、[武州豊嶋郡江戸庄図]
 寛永年間の江戸の状況を明らかにしている。現存するものを大別すると、国立国会図書館本と都立中央図書館本の二系統がある。
5、[細川家史料](『大日本近世史料』)
6、[慈恩寺中世史料](『寒河江市史』)
7、[注6]に同じ
8、[本城文書](『山形市史・史料編1』)
9、[注8]に同じ
10、『大猷院殿御実紀・巻12』・『史料綜覧』

2010/04/19 13:35 (C) 最上義光歴史館