最上義光歴史館/伊達政宗の母 義姫

最上義光歴史館
伊達政宗の母 義姫
【伊達政宗の母 義姫】

 伊達政宗の母義姫は、山形城主最上義守の娘として天文17年(1548)山形城に生まれた。最上義光の二歳年少の妹である。後に米沢城主伊達輝宗と結婚し、政宗をはじめ二男二女を生んだ。元和9年(1623)7月16日、仙台で没している。享年76。法名は保春院。墓は仙台市青葉区北山の覚範寺にある。

【勝気で行動的な性格】
 義姫は、ずいぶん気丈な人だったらしい。男勝りで、頭がよく、政治にも積極的にかかわる行動的な女性だった。こんな話がある。天正16年(1588)伊達氏が最上・大崎の両氏と対立し、一触即発の状態になったときのこと。当時、政宗は郡山(福島県)で常陸の佐竹氏、会津の芦名氏らと対陣中であり、現場に駆けつけることができなかった。これをみた義姫は、みずから最上、伊達両軍の間に輿で乗り込み、献身的なはたらきで両者を斡旋し、ついに和睦させている。
 また、慶長5年(1600)長谷堂合戦のときには、山形城に迫り来る上杉勢を防ぐため兄の義光が政宗に援軍を乞うと、義姫も手紙をおくり、窮状を知らせて一時も早い救援を要請している。このとき義姫が政宗の叔父留守政景に宛てた手紙が残っている。上杉・最上両軍の配備と各地の戦闘、落城間近の緊迫した状況などを的確に知らせる内容で、とても女性のものとは思えない。政宗は上杉軍の篭もる白石城(宮城県)を攻略中であったが、要請を受けてすぐに政景を総大将とする援軍を派遣。これより力を盛り返した最上勢は上杉勢を撃退することができた。義姫の決断力、行動力がこの二例によってもうかがわれる。

【政宗毒殺未遂事件】
 伊達政宗と母義姫。この母子については我々がもっとも知りたいと思うことは、例の毒殺未遂事件の真相だろう。わが子の膳に毒を盛るなどということが本当にあったのか。
 事件が起きたのは天正18年(1590)4月。伊達政宗が関白豊臣秀吉に謁見するため小田原(神奈川県)へ参陣する直前に起きた。場所は会津黒川城(後の会津若松城)。
 事件の経緯は伊達家の正史『貞山公治家記録』(元禄16年=1703年)に詳しい。4月5日、母の陣立ちの祝いの席に招かれた政宗は、母の用意したお膳に箸をつけたところ、たちまち腹痛を起こす。急ぎ館にもどり投薬を受け、危うく一命をとりとめた。母が自分を毒殺しようとしたことにショックを受けた政宗は、母が溺愛する弟の小次郎に伊達家を継がせるために自分を殺そうとしたこと、その背後に母の実家最上家の陰謀があることを感じとり、同月7日みずから弟の屋敷に赴き小次郎を手討ちにする。不憫だが、母を殺すわけにはいかない、というのが理由であった。義姫はその晩、山形の最上氏のもとに逃げ帰った。以上が『貞山公治家記録』の記す事件の概要である。
 このような義姫首謀説に対し、この事件は政宗が伊達家内部の弟擁立派を一掃するために仕組んだ一人芝居ではなかったか、とする説がある。作家の海音寺潮五郎はこの説をとる(『武将列伝』)。いったい真相はどうなのだろう。
 私は、『貞山公治家記録』が記す義姫出奔の時期について、かねてから疑問をいだいてきた。『貞山公治家記録』は義姫出奔の日を、政宗が弟小次郎を手討ちにした4月7日としているが、はたしてそうだろうか。その後の二人の関係を追っていくと、どうも信じられない。例えば、この事件のあと、二人はたびたび手紙でやりとりをしている。伊達家文書のなかには、母に宛てた手紙が数多く残っているが、いずれも親子の濃や豊かな情愛を感じさせる内容で、事件のわだかまりをうかがわせるものはひとつもない。特に、事件から3年後、秀吉の命で朝鮮に出兵した政宗が、朝鮮での戦況を詳しく知らせた手紙には、母から送られた小遣い対する率直なよろこびと感謝の気持が溢れており、「ぜひ無事に日本にもどって、もう一度おあいしたい」と繰り返している。このような手紙が山形に逃げ帰った義姫との間でとりかわされるとは考えにくいことである。

【新史料の発見と事件の真相】
 私の長年の疑問は、5年前(1999年当時)に発見された一通の古文書によって氷解した。それは文禄3年(1594)11月27日、政宗の師である虎哉和尚が岩出山(宮城県)から京都にいる大有和尚に宛てた手紙である。大有和尚は政宗の大叔父。この手紙のなかで、虎哉は「政宗の北堂(母堂)が今月四月夜、最上に向かって出奔しました。お聞きおよびですか」と述べている。
 この注目すべき史料の出現によって、母義姫の出奔は天正18年4月7日ではなく文禄3年11月4日であることが初めて明らかとなった。つまり『貞山公治家記録』の出奔の時期は誤りで、事件後義姫は政宗とともに黒川城から米沢を経て岩出山に移り、この年11月4日まで岩出山にいたことになる。これで事件後も二人の間で頻繁な手紙の交換が可能だったことも理解できる。ちなみに伊達家文書に残る母宛の政宗の最後の手紙は文禄3年11月25日、京都から出したもの。家臣の屋代勘解由に託されたこの手紙には、政宗が京都であつらえた母への小袖が添えられていた。しかし、この手紙も小袖も母のもとに届くことはなかったはずである。
 新しい史料によって義姫の出奔の時期が正されたいま、それ以外の事件の核心に係わる『貞山公治家記録』の記述も疑ってかかる必要があろう。義姫が毒を盛ったとするなら、事件後も政宗のもとに居つづけ、手紙のやりとりをしていることは理解に苦しむ。『貞山公治家記録』は政宗が弟を手討ちにしたその晩に山形へ出奔したとして、義姫と背後の最上氏の事件への係わりを強く印象づけているが、そこに伊達家の正史としての作為は含まれていないだろうか。しかし、いずれにせよ4年後に義姫が岩出山から実家の山形に帰ったのは事実である。義姫はなぜ出奔したのか。
 従来あまり注目されることのなかった史料だが、『貞山公治家記録』の付録のなかに、この謎をとく手掛かりとなる文書がはいっている。日付はないが、事件の直後、伊達政宗が側近(茂庭綱元か)に事件の経緯を知らせた手紙がある。このなかで政宗は、お膳に毒を盛ったのは母と思われ、その背後に弟を擁立する勢力があること、このままでは伊達家内部が二分し内乱となるおそれがあるため、やむをえず弟を手討ちにしたこと、弟には罪がないが母を殺すわけにはゆかぬので、可愛そうだが殺さざるをえなかったこと等を詳しくうちあけている。そして最後に「このようなことは自分の口からは言えないのでそなたの方で斟酌して、よいと思うことは世間へくどき広めてほしい」と意味深長なことばで締めくくっている。おそらく、こうした政宗の意向が、政宗が岩出山をはなれ京都・朝鮮へ行っている留守に徐々に噂となって家中に広まり、周囲の疑惑の目に居たたまれなくなった義姫が山形へ出奔したというのが真相ではなかろうか。
 政宗毒殺未遂事件の全容は、まだ闇の中にある。しかし、義姫を事件の首謀者としてきた従来の見解は、『貞山公治家記録』の信憑性とあわせて見直されるべきだと思う。

【母子の再会】 
 山形と仙台、別れた二人が再会するのは28年後、元和8年10月のことである。最上氏の改易にともない、義姫は政宗のもとに身を寄せる。しかし二人が仙台で一緒に暮らしたのは束の間。政宗のもとにもどった10ヵ月後、義姫は黄泉へと旅立つ。晩年の義姫は足も不自由で、目も悪かったらしい。しかし、江戸にいる政宗夫人愛姫に手製の下げ袋を贈って感激させるなど、姑としての細やかな気配りを見せている。
 再会した母子の間で交わされた贈答歌が、政宗の歌集に残されている。

○年月久しうへだたりける
         母にあいて
あいあいて心のほどやたらちねの
 ゆくすえひさし千歳ふるとも

○母の返し
双葉より植えし小松のこだかくも
 枝をかさねていく千代のやど

 義姫の生涯は、文字どおり伊達家と最上家の安泰を願って奔走した一生であった。この歌をみると伊達政宗の母としての誇りを終生持ちつづけた大したお母さんではなかったか、と思う。
■執筆:佐藤憲一/仙台市教育委員会文化財課長(1999年執筆当時)・仙台市博物館館長(2008年) 「歴史館だより癸供廚茲


2008/11/26 13:01 (C) 最上義光歴史館