最上義光歴史館/最上家をめぐる人々♯10 【義光の妻たち 清水夫人/しみずふじん】

最上義光歴史館
最上家をめぐる人々♯10 【義光の妻たち 清水夫人/しみずふじん】
【義光の妻たち 清水夫人/しみずふじん】

 先に天童夫人を失い、13年後の文禄4年(1595)には、大崎夫人の急死にあう。義光の落胆は想像にあまりある。
 とは言っても、壮年の出羽守山形城主に正室がいないのも困る。そこで白羽の矢を立てられたのが、清水第六代城主(現最上郡大蔵村)清水義氏の一人娘であった。
 清水氏は、現最上郡南部を領する有力な豪族だった。川が交通路として大きな役割をもっていた時代、最上川中流の清水は、軍事的にも経済的にも重要な所だった。
 ここから下れば庄内地域となり、海運の根拠地である酒田、そこから日本海を経て上方へとつながっていく。山形の最上氏にとって、なんとしても自分の支配下におきたいところ、それが清水だった。
 最上家が、一族成沢兼義の一子満久を清水に封じたとする『最上系図』を信じるなら、室町中期の文明年間(1469〜87)には、最上の勢力はここに及んでいたことになる。
 清水氏は、この満久を祖として義氏まで六代にわたって、ここの城主だったとされるが、義氏のころは庄内の武藤義氏と山形の最上義光という、両強豪のはざまにあって苦難の時代があったらしい。
 天正14年(1586)10月18日、義氏が没したとき、あとに男児がなかったため、その名跡を嗣いだのが、義光の三男光氏(のち義親)であった。清水家にはこのとき11、2歳の一人娘がいたとされ、義光が大崎夫人を喪ったころは、20歳前後の妙齢だった。
 名を「お辰」といい、うら若く美しい盛りだったに違いない。
 彼女が義光の室に入ったのは、はっきりしたことは不明だが、慶長の初め(1596〜)、義光50歳過ぎでもあろうか。「清水夫人」がこれである。
 寂しい暮らしをしていた義光にとって、春の日がさしこんだような明るく楽しい思いがしたのではなかったか。そのうちに、子供も生まれたのだろう。
 義光の子らの生年をみると、大崎・天童(そのほか?)夫人の所生と考えられる6人、1575年…義康  78年…松尾姫  81年…駒姫  82年…家親・光氏(義親)  84年…竹姫  88年…光茂(義忠)と、ここまでは、間隔が四年以内だ。ところが、この後は11年の間隔をおいて、1599年=光広(上山)、1602年=光隆(大山)の二人が生まれている。年若い清水夫人の子であろう。これに加えて、阿波徳島の里見家系図に「(里見親宜奥方)最上義光長女、寛文4年(1664)8月6日逝去」とある女性も、没年から推測して清水夫人のなした娘と見ることができそうだ。『増訂最上郡史』には「最上義光に嫁し……数子を分娩す」とあるそうだが(『大蔵村史』)、以上の考察からは、彼女には男児二人、女児一人があったことになる。
 清水夫人は、当然夫とともに京都に上り、中立売通りの最上屋敷で暮らしたと考えてよいだろう。慶長2、3、4年、義光の京都にあっての文学的活躍は、目覚ましいものがあるが、夫人のことも思いがけず、北野天満宮の記録に残されていた。
 慶長3年10月7日、「最上殿内衆が源氏物語をあつらえ、蝋燭二十丁を手土産に届けた」たという内容である。「内衆」とは家来たちのことだが、『源氏』をたのしむ家来などたぶんないだろう。これは義光の奥方、清水夫人からの依頼と見て間違いあるまい。上流階級の女性として、『源氏物語』は必須の教養書だった。まして、夫・義光が『源氏』の免許皆伝を受けていたのだから、なおさらだ。
 慶長5年の関ケ原稼の戦いに連動した出羽合戦(長谷堂合戦)では、義光は結局は勝ち組となって、57万石の大大名となった。翌年の夏には、早くも京都に行っている。
 清水夫人は、義光の晩年に明るい彩りを添えた女性だったといえるだろう。
 義光の領国経営も、いっそう力が入ったような感じがする。城下町の建設、最上川の開削、庄内地方の開発も順調にすすみ、いずれは鶴岡に隠居してのんびり暮らそうかなどと考えたのも、優雅な清水夫人がそばにいたからかも知れない。
 20年近い歳月を共にした義光が亡くなったとき、夫人は38歳。夫人は、生家清水家をたより、ふるさとに帰って草庵に隠棲、法名を真覚尼と称した。彼女の隠棲した庵が、現在の清水山光明寺である。
 清水家はやがて、当主義親が兄の山形城主家親と対立し、慶長19年にその攻撃を受け、滅亡の憂き目を見る。続いて家親が江戸屋敷で急死、後を嗣いだ家信の代、元和8年(1622)に最上57万石の大領地は没収されて、壱万石で近江大森へ移封となる。時に、夫人は47歳だった。
 若くして出羽の太守の奥方となり、大勢の侍女や家臣にかしづかれた都の暮らしも、まるで夢のような感じだったのではあるまいか。

   いにしへの錦の床も夢とのみ
      心しみずの里にこそすめ

 「むかしのぜいたくな寝床もまるで夢のような過去となり、今はふるさと清水の里に住んで、心も澄みきっております」。「すめ」はかけことばである。

   今はわれ浮き世の空の雲晴れて
      心の月の澄み渡るかな

 「今は私はつらい浮き世の雲も晴れ渡り、心の月が清らかに澄み切った思いです」

 夫人の詠じた和歌である。
 近衛少将、出羽守の後室ということで、新庄藩主、戸沢政盛は真覚尼に五十四石の土地を寄進して、手厚く遇した。
 寛永15年(1638)8月20日逝去。62歳であったという。
 大蔵村清水の光明寺と興源院には、夫人の遺品として、和歌の歌留多や、銅鏡、着用した袈裟などが大切に秘蔵されているが、それらにも夫人のやさしい人柄や高い教養を感じ取ることが出来る。
■■片桐繁雄著
2008/08/27 17:16 (C) 最上義光歴史館