最上義光歴史館/最上家をめぐる人々#9 【義光の妻たち◆‥憩孤弯/てんどうふじん】

最上義光歴史館
最上家をめぐる人々#9 【義光の妻たち◆‥憩孤弯/てんどうふじん】
【義光の妻たち◆‥憩孤弯/てんどうふじん】
   
 山形の北隣の領主天童氏、里見家は、舞鶴山に城を構える有力な豪族だった。室町時代中期には山形と並ぶ大名とさえ見られていた。義光がこの家から側室を迎えたのは、当時としては当然の政略結婚であった。
 天正5年(1577)、義光が最上川下流方面へ進出しようとしたとき、天童氏を中心とした「最上八楯」の豪族グループは、同盟を結んでこれに抵抗した。さすがの最上軍もこれを攻め崩すことができず、一旦は和睦をしたらしい。和睦を維持するために、天童からこの女性が入ったのであろう。
 和泉守天童頼貞の娘であり、頼久(頼澄とも)の姉だという。父頼貞は、山形と和睦成立中の天正7年に没し、そのあとをまだ若かった頼久がつぐ。
 夫人は、天正10年に義光の三男光氏(後清水氏を嗣ぎ、義親と改めた)を生み、その年の10月12日には亡くなってしまう(大蔵村清水興源院の記録)。産後の肥立ちでも悪かったのだろうか。おそらくは、20歳代の若さだったにちがいあるまい。
 最上と天童を結びつけていた彼女がいなくなると、両者の関係はふたたび悪化する。政略結婚であろうとも、この女性は両家の仲をやわらげる大きな働きをしていたのである。
 そのころは、野辺沢氏の離反で、天童氏を盟主とする「最上八楯」同盟も崩れており、天正12年10月の最上勢攻撃のまえに、天童方はもろくも敗れ去る。頼久は山を越えた奥州の国分能登守(母の実家)を頼って逃亡する。
 義光はしかし、これを追撃しなかった。逃げ去るのを黙認した。
 無駄な戦いは避けるべしという義光の信念からか、それとも亡き天童夫人への思いやりからであろうか。おそらくその両方だったかと思われる。
 義光は、城跡の山頂に勝軍地蔵をまつる愛宕神社を再建した。これは、もともとは天童氏が尊崇した神社である。「最上氏も天童氏も、ともにこの地の主として生きてきた。敵対したとはいっても、憎しみはない」という義光の考えによるものと語られている。
 慶長14年(1609)6月24日、清水城主となっていた光氏は、愛宕神社に石灯篭を寄進した。この年、年令は28歳ごろと推定される。
 「光氏祈念成就之所」として、「矢口左衛門尉・角川小源太・角河治部少輔」の名も彫られている。名字から見て、彼らは現最上郡、新庄市を中心とする地域の有力な国人層と思われ、側近として光氏を支えていたのであろう。
 ところで、光氏の「祈念」とは、何だったろうか。生母の実家である天童氏が逃亡し去り、長兄・義康は父の不興をかって廃嫡のうえ、不幸な最期をとげた。関連して一部家臣が国外に退去する。父は、一族・重臣を領内の要所に配置し、領国支配の体制を固めつつあった。どこか不安な雰囲気をはらむ情況のなかではあったが、自分は清水という最上川中流の重要拠点の城主に抜擢され、2万7千3百石という大領地を与えられた。青年光氏にとって「祈念成就」すなわち「願いがかなった」とは、このことであろうか。
 彼は、城地清水の興源院を母の菩提寺として、位牌を安置した。
 安定した地位を得たとき、光氏が母のふるさと天童の鎮守愛宕神社に、感謝の意をこめて寄進したのが、この石灯篭かもしれない。そう考えると、この神社に寄進した理由が理解できるような気がする。
■■片桐繁雄著

2008/08/23 11:40 (C) 最上義光歴史館