最上義光歴史館/最上家をめぐる人々#8 【義光の妻たち ‖膾衂弯/おおさきふじん】

最上義光歴史館
最上家をめぐる人々#8 【義光の妻たち ‖膾衂弯/おおさきふじん】
【義光の妻たち ‖膾衂弯/おおさきふじん】
   
 「矢が飛ぶのは弓の力、雲が走るのは龍の力、男がことをなすのは女の力によるのだ」日蓮上人はこんな意味のことを述べている。歴史の表面には表れなくても、女性の力の大きさは、だれも否定できないだろう。
 最上義光が偉大な業績をなしとげた陰には、彼を支えた女性がいたはずである。
 正室は、奥羽の名門大崎家の娘とする『最上家譜』その他と、近隣の豪族天童頼貞の娘とする『光明寺本系図』等があって、いまひとつはっきりしない。
 郷土史家、故川崎浩良氏は、大崎夫人を正室と見ておられる。この夫人が長男義康や駒姫など何人かの子をもうけ、また夫とともに会津に出かけて豊臣秀吉に謁したり、京都にのぼって京文化を楽しんだりしたという(『川崎浩良全集4』)。
 一方、山形大学教授で宗教史の権威、松尾剛次博士は、最上系図や山形寺町の成立過程、浄土真宗の弘通状態、さらに当時の女性の信仰・帰依などの問題を研究されて、天童氏の出とするほうが妥当であろうとしておられる(論文「山形寺町の形成」<平成十五年度・山形大学公開講座報告集所載)。
 いずれにしても、義光の長男義康が生まれたのが天正3年(1575)であるから、正室は、これ以前に嫁いだはずである。それが天正初めのこととすれば、山形は天童・中野グループと激しい抗争を繰り広げていた真っ最中となる。はたして天童家から入ったのかどうか。
最上家研究では大きな問題だが、これは今後にゆだねることとして、ここでは従来山形で語られてきたように、正室を大崎夫人として述べてみたい。
 義光の子は、義康の後に松尾姫、駒姫、家親、光氏(後、義親)とつづく。その何人かが、大崎夫人の子ということになるだろう。
 近江八日市市の最上家菩提寺、曹洞宗妙応寺の記録や『最上家代々過去帳』によると、文禄4年(1595)8月16日、「山形殿内室、奥州大崎家女」が亡くなったという。法名は「月窓妙桂大禅尼」。この日は、駒姫がはかない最期をとげてからわずか14日後である。ちょうど二七日(ふたなのか)めにあたるところから、夫人の死は、悲しみのあまり自ら命を断ったのではないかという人もあるほどだ。
 夫人を開基とする寒河江市の正覚寺には別伝がある。彼女は義康の生母であり、一時寒河江を領した義康と居をともにし、この地で亡くなったという。はたしてどちらが正しいか、これもはっきりしない。正覚寺には彼女が愛用したと伝える調度品が収蔵されている。
 また、山形市内専称寺は、駒姫の菩提寺として知られているが、この寺には慶長2年(1597)に義光が寄進した「出羽守内室像」といわれている画像が秘蔵されている。一般にはこれが大崎夫人であり、駒姫画像といっしょに寄進されたところから、駒姫を生んだ女性だとされている。品のいい尼僧姿を描いた桃山時代絵画として、県文化財に指定されている。
 名門大名最上家がどこから妻を迎えたかという、基本的なことがらさえ、いまだに確定できないのは、少なからず残念なことだ。
■■片桐繁雄著

2008/08/21 11:07 (C) 最上義光歴史館