最上義光歴史館/最上家親という人物
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最上義光歴史館
〒990-0046
山形県山形市大手町1-53
tel 023-625-7101
fax 023-625-7102
(
山形市文化振興事業団
)
最上家親という人物
◆◇◆最上家親という人物◆◇◆
今年(2001)1月10日の山形新聞で、最上家親の京都参陣を証拠だてる資料の発見が報じられた。
慶長8年(1603)卯月(4月)11日付けで、家親から西村山地方の土豪、堀弥三郎にあてた書状である。所蔵者は朝日町の五十嵐義一氏、解読は鈴木勲氏。
内容は「先年京都まで陣参してさまざま奉公してくれた恩賞として、居館の普請を許す」というものである。この年、家親は22歳。最上義光在世中は寒河江方面に領地を与えられ、「寒河江駿河守」を名乗っていた一時期があった。もちろん、実際に寒河江に住んでいたのではあるまい。
ところで、最上義光亡き後を嗣いだ家親については、一般にはあまりよく知られていない。それも無理のないことで、義光という大人物の光芒に幻惑されて周囲の者は見えにくいし、若いときから家康・秀忠に近侍して江戸住まいが多く、山形城主であった期間がわずか3年3ヶ月という短期間であったことも、知られにくい理由であろう。
だが、家親もなかなか華々しい存在だった。「家康」の名の一字をもらったこと、秀忠に従って信州上田攻めに参加したこと、さらに琉球王の案内役、朝廷から摂関家が江戸に来たときの披露役大阪攻め(冬・夏の陣)での江戸城警護と、重要な役目をこなしている。残された資料からは芸術文化のたしなみが豊かだったことも窺われ、大大名最上家の貴公子といった観がある。
だが、家親については、むしろ最上家改易の遠因をなすとされるその最期が、話題になることが多い。
亡くなったのは元和3年(1617)3月6日。36歳。文献では「頓死」つまり「急死」と書かれている。「在府して芝居を見ているとき」と『徳川実記』にはある。一方徳川秀忠からは病気見舞いの手紙をもらっている。こうした状況から推測するに、食中毒のようなにわかな病気で、江戸で亡くなったのであろう。
後継ぎの家信はまだ12歳という幼さ、一族重臣の間でごたごたが起こってしまう。要するに、政権をめぐる抗争である。そういうもめ事には、揣摩憶測がつきもので、家親は政敵から毒殺されたのだと言い出した一族家老もいた。幕府で調べたところ、これは根拠なしと判定されているから、やはり死因は急病だったろうと思われる。
世間は、名門の崩壊には、とかくよからぬ噂をたてたがる。女に殺されたとか、狩りの帰りに毒を盛られたとか、噂に尾鰭がついて勝手に話が広がり、妙な方向に発展し、それが真しやかに語られることにもなる。
従四位下侍従兼駿河守、最上家親。若くして逝った山形城主を、もう一度見なおしてみたいものだ。
■執筆:片桐繁雄「歴史館だより�癸検晋Φ耆湘�1」より
2006/11/26 09:18 (C)
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