最上義光歴史館/最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【二 佐倉藩掘田氏に仕えた佐竹氏】
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最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先 【二 佐倉藩掘田氏に仕えた佐竹氏】
最上を退去した佐竹内記と一族の仕官先
【二 佐倉藩掘田氏に仕えた佐竹氏】
慶長五年(1600)の関ケ原の戦いの後、徳川氏の覇権確立による豊臣大名の排除により、多くの譜代大名を創設している。三代将軍家光の寛永初期の頃、新しく幕政の担当者として、新参譜代大名による幕政が行われるようになる。その新たな担当者の一員として、堀田加賀守正盛が登場してくる。寛永三年(1626)御小姓組番頭から、野州佐野一万石の大名となった正盛は、同十二年(1635)老中に列すると武蔵川越三万五千石へ、そして三年後には十万石にて信州松本へと移る。しかし、僅かにして同十九年(1642)六月に下総佐倉へと移り、前期佐倉藩の創設となる。
この正盛の大名家創設の寛永初期の頃から、家臣団の増強と編成が始まったのであろうから、佐竹氏の仕官の時期は、少なくとも松本藩時代の頃であろう。佐竹氏の記録の初見となるものは、[掘田加賀守正盛分限帳](実は子の正信の代、明暦から万治三年までの間という)である。この万治三年(1660) とは、慶安四年(1651)将軍家光の死に殉じた正盛の後を継いだ正信が、この年に無断帰国などの理由で改易され、前期佐倉藩掘田氏の終焉となる年である。分限帳には六名の佐竹氏の記載がある。
佐竹伝兵衛(二百石) 辰之助(二百石) 市兵衛(百石) 友右衛門(二十人扶持) 万左衛門(四十俵三人) 辰之助母(女儀 五十俵)
また、市兵衛には「松平伊賀守殿へ」、万左衛門には「久世大和守殿へ」と、掘田氏改易後の仕官先を示す加筆が為されている。これは、全てではないが、一部の藩士の間にも見られる。この分限帳の成立の頃は、内記は既に死亡、子の初代・伝兵衛が継いでいたものと思われる。
元和八年(1622)八月、小大名に転落した最上義俊に近侍し、藩の再生に勤めてきた内記が、最上氏を離れ堀田氏に仕官した時期はいつ頃であったか。それは堀田氏が川越から松本へと転封を重ね、寛永十九年(1642)に佐倉藩成立を見る頃、掘田氏家臣団の大幅な増強が為された時期であった。
多くの浪人達が仕官の口を求め、集まって来たのであろう。内記が最上氏を去った時期は、早くとも寛永の十二年(1635)以後のことであろう。そして、内記の名を掘田氏の内から初めて見出だすのは、松本へ転封が決まった二ケ月後の五月、藩主正盛が江戸より松本へ遣わした諸役人から、[松本諸役人誓紙之前書]という誓書を提出させている。その中に、寅五月十五日付の内記を含む五人の連署があり、内記の掘田氏に仕官していたことが分かる。
このように、内記の仕官の時期は、掘田氏の川越藩時代の頃で、最上氏を去ってから間もない頃であったろうが、早々に役に就く程の評価を受けた人物であったのだろう。もう一点、内記に関わる貫重な記録が有った。それは寛永十七年正月付の[覚書]の一つに、次のような記録が有った。
右之奉行役者相除、左近煩指合有之節者、御城中御番以下見廻可申旨被仰出候事、
この覚書きは何を語っているのだろうか。内記が何か体調でも崩し、奉行役でも免除されたのではないか。このように二点の記録から、僅かながら内記の堀田氏家中での存在を、確認することができる。『親類書』の佐竹伝右衛門が、父の伝兵衛の死期を「十年以前」と記していることから、祖父内記の死期はそれ以前の、寛永の終り頃ではなかろうか。もう正信の分限帳には、内記の後を継いだ伝兵衛の名が有った。
また、卯正月廿日付の[江戸役人之覚]に、奏者番として伝兵衛の名がある。日く
右者弐人宛ニ而一日一夜替り、夜者壱人ニ而御番可相勤旨被仰出候事、
また[物頭之覚]には、日く
一、御持弓拾張 佐竹伝兵衛
此足軽拾壱人小頭共ニ
この二つの役に就いた伝兵衛とは、内記の子の初代・伝兵衛なのか、孫の二代・伝兵衛(伝右衛門の兄)なのかはっきりしない。この当時の卯正月に該当する年は、寛永十六年(1639)と慶安四年(1651)である。
以上、掘田氏家臣となった佐竹内記と、その一族の姿を垣間見ることができた。しかし、辰之助、市兵衛、友右衛門、万左衛門、また辰之助母などが、内記とどのような繋がりを有していたのか、掘田氏内部の調べからは、満足な結果は得られなかった。
■執筆:小野末三
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2010/09/07 10:49 (C)
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