最上義光歴史館/山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【八 義俊の最期、そして家族たち】
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fax 023-625-7102
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山形市文化振興事業団
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山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【八 義俊の最期、そして家族たち】
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯
【八 義俊の最期、そして家族たち】
寛永六年(1629)という年は、江戸城普請役を勤め上げた、晴れて公の場に復帰した記念すべき年であった。しかし、それまでの江戸での逼塞状態の生活から脱却できたとは申せ、私的な面をも含め、東西に二分された所領の実態については、明確にすることは困難なことである。ただ諸史は近江の大森に陣屋を置き、母子共に移りそこで没したなどと憶測するばかりである。しかし、義俊は一度も任地には足を踏み入れず、それぞれに陣屋を有しながらも、三河の梅坪村に見るように、その所領全域は幕府代官の関与する支配体系を採っていたのではなかろうか。
重ねて述べるならば、義俊の公の場に姿を見せたのは、この年限りであろう。これ以後の義俊の生きざまとは、家譜に「長々相煩」と伝える如く、肉体的にも精神的にも苦痛に満ちた日々であったであろう。思うに将軍に御目見を果たし後、江戸城普請役の勤めを果たしたことが、一万石大名としての義俊を語る全てではなかろうか。
寛永八年(1631)七月十五日、義俊は「一遍上人絵巻」を光明寺に寄進した[注1]。この絵巻は祖父の義光が文禄三年(1594)に求め、光明寺に納めたものであるが、後に故あって最上家に戻されていた。奥書きには「寛永八年七月十五日最上源五郎義俊新寄進之」とあることから、改めて寄進していたことが分かる。
文禄三年
七月七日 最上出羽守義光寄進之(印)
右十巻之縁起有様子手前在之
寛永八年
七月十五日 最上源五郎義俊新寄進之(印)
出羽国山形
光明寺 筆者 狩野法眼(印)
この絵巻の寄進の時期が、義俊死去の四ケ月前のことである。義俊の直接の死因ははっきりしないが、ただ長く伏していた状態であったのかも知れぬ。推測すれば、義俊自身も我が身に迫る死期を覚悟しながらも、切羽詰まっての仏心への帰依を願ってのことであったのかも知れぬ。ただ々々義俊の心情を思いやるばかりである。
寛永八年辛未十一月廿二日、江戸にて没、享年二十七歳。〔最上源代々過去帖[注2]〕には「月照院殿華嶽英心大居士 寛永八辛未十一月一二十二日 源五郎義俊、家信トモ云」とある。山形市七日町の瑞雲山法祥寺墓地に、翌九年四月に建立された義俊の供養塔がある。誰の手になるものなのか、寒河江住人とあるのみである。義俊と深く関わった人物であったのか、没後僅か五ケ月後のことであり、この人物の義俊への思いの深さを知ることができる。
損館月照院殿前羽州華嶽英心大居士
後日為忌寒河江之住人以微力五輪造立之
干時寛永九壬申四月吉日 縁徒施主 敬白[注3]
また鉄砲町の光禅寺墓地には、義光の供養塔の脇に、家親と共に義俊の供養塔も並んでいる。これは享保十五年(1730)義俊の百年忌に際し、住職が建てたものだという。また江戸で死去した義俊は泰平山万隆寺に葬られた。この寺は明暦の大火以前は湯島にあったが、その後は現在の台東区の浅草寺近くに移っている。明治二十三年(1890)に至り、旧臣たちの手により個々の墓を一基にまとめ再建している[注4]。以後、幾度かの震災などに遭いながらも持ちこたえてきた。現在の寺の基域は広くはないが、幾度か手が加えられてきたようだ。現在は墓域の片隅に追いやられた位置にある。正面には「旧山形城主最上家之墓」、側面には「明治廿三年六月 石川左兵衛敬建立之 楯岡小市朗久富 妻そら」とある。また墓段石にも「中祖以後八世之墓碑、云々」と、長文の刻印が見られるが、永い歳月の間に次第に摩耗してきており、判読するのも困難である。
次に残された家族たちについて述べてみたい。義俊の実母については、「梅室院妙董禅尼 元和三年丁巳十二月廿一日 源五郎義俊実母也」とあるように、義俊が家督を継いで間もない時期に没している。その戒名から見ても、父の家親の正室ではないようだ。過去帖などから家親を囲む女性については、この梅室院以外には確認できない。
慶長十六年(1611)七月、数え七歳の源五郎は、盛岡藩主南部利直の女、七子と婚約したことを『南部叢書』は伝えている。
十六辛亥年七月四日、公主七子姫、最上源五郎義俊ニ嫁シ玉フヘキ約ヲナシ玉フ、考、義俊ハ従四位上行左近衛権少将源義光ノニ男、従四位下侍従山形駿河守家親ノ男ナリ、元和三年六月家督、時二十二歳、同八年五月改易[注5]、
この七子の義俊との婚約について、南部利直は酒田の豪商加賀与助に対して、蝋燭進上に対しての礼を述べると共に、上意により源五郎との婚約を仰せつかったことを伝えている。書状の日付が七月六日とあり、これが婚約の決まった年とすれば、両家が姻戚関係に入ることをいち早く報じた私的な書状でもあったかも知れぬ。
尚々毎年心付候段満足申候、以上
田名部へ船被越仰付而音信見事成小蝋燭百挺令満足候、不相替無何事之由目出度候、京都へ上下之刻ハ毎年相候へとも、近年ハ不能面談候、以上意を最上源五郎殿縁篇ニ被仰付候、定而其方なと可為満足候、弥心易存似合候用も候ハゝ、可被申越候、
恐々謹言
南部信濃守
七月六日
(貼紙)
「利直(花王影)」
加賀与助殿[注6]
このように、義俊の南部家との婚約が早々と成立したが、婚儀が執り行われた日時については、確かな記録を見ることはできない。ただ七子については、『寛政重修諸家譜』は「母は某氏、最上源五郎義俊が室、離婚してのち家臣中野吉兵衛元慶に嫁す」とある。また最上家の記録にも「室は南部信濃守利直が女」とあり、さらに [南部氏系図]には「為嫁最上源五郎義俊之約有罪改易、依再嫁中野吉兵衛元康」とあるから、南部利直の女が義俊に嫁したことは、時期ははっきりしないが事実であろう。
七子の再婚の相手の中野元慶(元康)とは二千石を領する重臣で、「室、利直公公女七姫君、始出羽最上城主最上源五郎義俊室、イマタ婚セスシテ最上氏閾除カル、後更ニ元康ニ下嫁ス、御化粧料五百石ヲ賜フ、寛文五年二月十一日卒ス[注7]」とあるが、改易直後のことか、また義俊没後のことなのか、その離婚の原因や時期などを特定するのは難しい。
義俊の嫡子、義智の実母については、家譜には「母某氏、慶安四卯七ノ十二死」とあり、過去帖には「清浄院殿直信宗心大姉」とある女性である。また次男の義長の母を「松平陸奥守忠宗女」とするのは誤りである。思うに、この二人の男子の内のいずれかが南部氏の所生であれば、七子は最上家を去る必要はなかったのではないか。七子は男子を儲けることができなかったのである。
義智の実母の断片的な記録が、[柴橋文書]に見えている。この柴橋図書正忠を祖として書き継がれた文書から、関連記事を拾ってみる。
最上源五郎十二歳之時、御父駿河守家親家督被仰付処、家老為其仲間申分有之、十七歳之時領知被召上為堪忍壱万石拝領、源五郎廿六歳ニ而逝去、嫡子最上刑部弐歳之時壱万石被下ル、然所柴橋図書佐竹両人申分重時又有之、刑部御母双方浪人被申付、此時浪人ニ罷成目斎卜改、図書室辻氏娘妹最上源五郎御[ ]ヲス刑部御母也、
羽州を失い小大名の地位に落ち込んだ義俊の、その短い期間中の私的な消息を伝えるものは殆ど見当たらない。それでも、この柴橋図書の家系が伝える資料等により、当時の最上家内部の動きを僅かながら知ることができる。これから、家禄半減による家臣団の整理につながる論争を呼び、そのため義智母の申付けにより、柴橋・佐竹の両氏が退散したことが分かってくる。この義智母こそ慶安四年(1651)に没した清浄院に間違いないだろう。
義智の生れについては、家譜は寛永八年(1695)と記すのみで、月日ははっきりしていない。義俊が死を迎えた時は、満一歳に満たなかった幼児であったろう。当然のこと絶家となっても不思議ではなかったろう。所領半減とは申せ、旗本身分を確保できたこと
は幸いであった。
次男の義長の生れは、義俊死去から四ケ月後の翌年三月である。過去帖には、後に別家となった義長家の記録は無く、その[畧譜]にも実母の記録は無い。またそれぞれ旗本家に嫁いだ三人の娘達についても実母の記録は無い。
長女は御書院番大嶋義当に嫁ぐ。義当は寛永十年(1633)五百石を知行、寛文十一年(1671)没。長女の生れは、元和末から寛永初期の頃であろう。
次女は大番役太田康重に嫁ぐ。康重は寛永十三年(1633)より仕え、後に三百石・廩米五十俵を知行する。元禄十二年(1699)没。
三女は交代寄合妻木頼次に嫁ぐ。頼次は承応二年(1653)七千石を継ぐ。万治元年 (1658)に嗣無くして没したため断絶[注8]、過去帖にある「晴光院殿室寿養大姉 元禄二己巳五月廿一日 駿河守義智姉」とは、実家に戻った三女のことかと思われる。
寛永九年(1696)八月、義智は新たに近江領五千石を賜り寄合に列せられる。同十三年(1636)八月、初めて将軍家光に拝謁を賜る。二十五歳にして初めて近江の采地に入る。元禄八年(1695)十二月、高家となり従五位下侍従に叙任、駿河守。翌九年十一月十四日、本院御所崩御により御使として京に赴く。同十三年(1700)三月九日没、六十七歳。
[吏徴別録]
高家 元禄八年乙亥十二月十五日、交代寄合最上刑部義智拝領、
十八日、侍従改駿河守、此為一代高家[注9]、
交代寄合とは格式は大名に准じ、「雖小身、何モ留守居仕之、大概之格式万石以上ニ准ジ、勿論老中支配也」として、常に無役とはいえず、大番頭などを勤めることもあった。
最上氏が高家に列せられたのは、義智一代限りである。また「交代寄合」から「交代御寄合表御札衆となり、この名称が使われだしたのは、元文六年(1741)の「武鑑」からであった[注10]。
義智は女性運には恵まれなかったようだ。家譜などには「妻は松平和泉守某が養女、後妻は奥平美作守忠義昌が女、また西三条右大臣実条が女を娶る[注11]」としているが、これらの室は相次いで死別しており、最後にもう一人の女性が居たのである。
1、西三条(三条西)右大臣実条女
将軍家光の乳母であった春日局が、幕府の使節として京入りの際に、局の斡旋により大奥に入ったという。十七歳のとき松平和泉守乗寿の養女となり、「慶安三寅年十一月従御城直ニ駿河守方江被下置([畧譜])として、義智に嫁したことが分かる。過去帖には「渓台院殿華揚日経大姉 寛文二壬寅六月二日 西三条右大臣実条女 義智内室也」とある。
2、継妻 てい 奥平美作守忠昌女
家譜には「寛文四辰閏五ノ廿四死、廿三歳、号知光院槐窓寿禅尼」、また過去帖には「智光院殿槐窓寿貞大姉 寛文四甲辰五月廿四日 駿河守義智室」とある。
3、後妻 西三条右大臣実条二女
家譜には「寛文十戌六ノ廿九死、号梅林院花室春光大姉」、また過去帖には「梅林殿屋春香大姉 寛文十庚戌六月廿七日 渓台院義智妹」とある。(渓台院義智妹とは渓台院妹のこと)
4、後妻 奈津 本多内蔵助昌長女
本多昌長は、福井藩主松平越前守光通に仕え、禄高四万石の大身である。奈津は藩主の養女となり、最初に嫁いだ相手は公家の広橋貞光である。藩主の生母が広橋氏であった関係からか、この重臣の娘を養女として嫁がせたのだろう。寛文六年(1666)秋に貞光に嫁いだ奈津であったが、何故に離縁になったのかははっきりしない。貞光は元禄十二年(1696)七月に死去しており、義智の死は翌年の三月である。やはり貞光生存中に、広橋家を離れたのではなかろうか。過去帖には「松林院殿奥華良操大姉 宝永七年庚寅正月六日 駿河守義智室 本多孫太郎娘」とある。
[福井藩史料]には、「秋(寛文六年)、本多内蔵助昌長娘奈津、光通君為御養女、広橋参議藤原貞光卿嫁、後、最上刑部源義智嫁、 正月(宝永七年)十六日、最上刑部少輔源義智室卒、葬于武江浅草勝光山万隆寺、松林院殿貞花良操大柿[注12]」とある。
次男の義長は、幸いにも新知三百石を賜り別家となった。幕府としても、それなりの配慮を示したのであろう。
寛永十酉年九月十五日二歳之時、被拝召、兄駿河守分知可仕之処、当時御頚リ高之儀ニ付、於出羽国新知三百石被下、兄駿河守分知配当被仰付、追々御立可被遊旨被仰渡、大膳生長仕御書院番、延宝五年六月十九日死四拾六歳、浅草万隆寺葬[注13]、
その所領地については、当初は出羽の地の内であったようだが、孫の義武が元禄十一年(1698)家督の際に、「山形ハ遠国二付御引替願置、依テ家督時御蔵米」として、速い羽州の地は不便であろうことから、これを蔵米取りに変えている。
■執筆:小野末三
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[注]
1、『山形市史・史料編1』
2、[注1]に同じ
3、[注1]に同じ
4、『山形の歴史』(川崎浩良)
墓碑名について詳しく述べている。長文の刻印も永い歳月を重ねたせいか、満足に判読も難しくなっている。万隆寺本堂は立派に再建され、墓所も綺麗に整備されてはいるが、「旧山形城主最上家之墓」には、あまり人の訪れた気配もなく、一抹の侘しさを感じる。
5、[聞老遺事](『南部叢書』・『青森県史・史料編近世1』)
6、[利直公御事蹟](『山形県史・古代中世史料1』)
7、『南部藩参考諸家系図』
8、『寛政重修諸家譜』
9、[吏微別録](『古事類苑・官位部』)
10、西田真樹[交代寄合考](『宇都宮大学教育学部紀要・第一部36号』昭61年)
11、『山形市史・史料編l』
最初の室については、割合と許しく書かれてはいるが、これを徳川家綱の侍女として、義智が押しっけられ妻としたとかと、面白く書いているものもある。
12、[国事叢記](『福井県郷土叢書』)
13、[畧譜](『内閣文庫所蔵文書』)
2010/06/22 14:30 (C)
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