最上義光歴史館/山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【四 近江領分五千石の地】

最上義光歴史館
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【四 近江領分五千石の地】
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯

【四 近江領分五千石の地】
    
 元和八壬戌八月二十一日、祖父義光が営々として築き上げた、山形藩五十七万石没収の憂き目を見た義俊ではあったが、辛うじて大名としての体面を保持得た、近江・三河の五千石宛の領地とは、どのような性格を有していたのであろうか。諸史に見る義俊の新領地についての大要を述べてみる。

(イ)[寛政重修諸家譜] 
 あらたに近江国蒲生・愛知・甲賀をよび三河国のうちにをいて、壱万石の地を義俊母子にたまひ、
(ロ)[最上家譜] 
 当分の内為扶持料、江州・三州ニテ一万石被下之、
(ハ)[譜牒余録後編]
 為御扶持方、江州・三州にて壱万石、源五郎に被下置候、
(ニ)[玉滴隠見]
 先当(当座)ノ御扶持方トシテ、高一万石下シ置レ候ノ処ニ、
(ホ)[東武実録]
 近江・参河二州ニ於テ、僅ニ采地一万石ヲ賜り、
(へ)[廃絶録] 
 於近江五千石源五郎へ被下、於三州五千石母儀へ被下、合一万石、
(ト)[伊達秘鑑] 
 源五郎ニハ近江国ニテ三千石、堪忍分トシテ下サル、江戸浅草ノ下屋敷ニ逼塞仰付ラル、

 この諸史の内容から察すると、東西に二分された所領の支配が、直接最上家の手によるものではなく、表高一万石[注1]の内容が扶持方・堪忍分という、「宛行扶持」に等しいものとしているようだ。実際に三河の内の一ケ村が、幕府代官の管轄下に在ったと思われる記録(後述するが)があることから、他の地域にも同じことがいえるのではなかろうか。ということは、大名家とは申せ自主性を失い、幕府の監視下に置かれていたことを意味するものであろう。推測すれば、この状態は寛永五年(1628)九月、義俊が晴れて赦されるまでは続いたのではなかろうか。
 そして翌六年、義俊が本役一万石で勤めた江戸城普請手伝いが、幕府から改めて一万石の大名として、認知された証しではなかったろうか。義俊が明らかに一万石の大名として、公の場に名を止めたのは、この普請手伝いの場のみで、他に例を見ることができない。
 そして、寛永八年(1631)義俊の死により、大名の地位を失った最上家は、そのまま近江領五千石のみを有する一旗本として生れ変わっていく。先ずは過去に於いて、この近江領五千石が、最上家とどのような経緯があり、義俊に引き継がれていったかを見てみたい。
 豊臣秀吉の天正の頃から、徳川家康の慶長の初めの頃にかけて、両者が諸大名達の上洛に際し、その滞在費用として、京近辺に「在京賄料」としての知行地を与えていた。義光に例をとれば、「その年(文禄元年)の正月、秀吉は征韓の帥を出し国内の領主にも出兵参加を命令したので、義光は正月二日山形を発し、京都で秀吉に面会した際、秣場として近江大森の地五千石を給与された[注2]」として、義光の近江での賄料の確保を伝えている。
 しかし、これが果たして事実であったのか。これを示す根本史料には未だ接することができない現状では、なかなか事実として肯定するのは難しい。
 この説の根源となったのは、おそらく『最上四十八館の研究』(丸山茂・昭和19年)の次のような記事であろう。

 近江・三河両国に各々五千石を賜ったのであるが、そのうち三河国の分五千石は遂に不払いに終わってしまった。豊臣秀吉肥前名護屋に陣、征韓の帥を統帥した時、義光も出陣したが、この時秀吉より秣場五千石を江州大森の地に得た。現在の滋賀県蒲生郡玉緒村で、これを契機に近江商人が山形に移住して、今日の山形商業の端緒を開いた。最上家が改易先を大森に選ばれたのも、この因縁に依るのである。
 
 そして、この先人の説が大きく膨らみを見せ、『山形市史・中巻』の「幕藩体制の確立と推移」の中の記事が、この説をさらに具体化して定着させている。

 豊臣秀吉が文禄年間に伏見城を築いた折、麾下の諸大名を城下に在住させるために、屋敷を分賜したが、その家来分までの土地が無かったから、隣国近江の各地を諸侯の秣場として宛て行い、そこに家来たちを居住させることにした。当時、義光もまた蒲生郡大森に五千石を給与されており、これが近江と山形の関係が深まる、直接の契機となったものと見られる。
 
 このように、これらの説を見る限り、義俊の近江領分五千石とは、祖父伝来の土地をそ
のまゝ引き継いだものと解される。しかし、これに関わる信ずべき史料を手にしない限り、安易に認めることはできない。ただ最上義光分限帳に、「御蔵人」の分としての出羽国内十万千二百石の外に、「右之外在之少宛之御蔵人別帳有之」として、別に小規模の蔵入地のあることを伝えている。
 東北諸大名に対しての賄料については、上杉景勝は天正十六年(1588)に、蒲生・野州・高嶋三郡のうちから一万石[注3]を、伊達政宗も蒲生郡内に五千石を与えられている[注4]
ので、義光への給与も考えられようが、これを先人の説に従い、そのまゝの形で義俊の領分とすることには、重ねて疑問を呈したい。ここに義俊以後の旗本最上氏五千石の所領十ケ村の変遷について述べてみる。

  「最上領村高」
 一 高五百六拾四石五斗三升  上大森村(東近江市)
 一 同八百四拾四石六斗七升  下大森村(  同  )
 一 同九百七拾四石壱斗八升  尻無村 (  同  )
 一 同弐百九拾壱石七斗七升  稲垂村 (近江八幡市)
 一 同五百七拾壱石九升    石原村 (  同  )
 一 同弐百七拾八石六斗五升  小御門村(  同  )
 一 同百四石壱斗壱升     野口村 (  同  )
 一 同千九石六斗五升     愛知郡 池之庄村(東近江市)
 一 同百六拾壱石弐斗九升   甲賀郡 市之瀬村(甲賀市)
 一 同百九拾九石二斗五升   同    上野村( 同 )
        五千石
             (注、( )内は現地域を示した)
 
 この「最上領村高[注5]」は、旗本最上氏家臣の鳥越氏の記録によるもので、この交代寄合御礼衆としての最上領五千石が、義俊代の近江領分五千石をそのまゝ引き継いだものなのか、この十ケ村の変遷の大要を述べてみる。
  
(イ)上大森村
 蒲生郡のうち、[寛永高帳](以下、高帳)では彦根藩領294石余、旗本寄合最上氏領564石。
(ロ)下大森村
 蒲生郡のうち、高帳では江戸期を通じて旗本寄合出羽最上氏領844石余、元和八年最上義俊が近江・三河に於いて一万石を与えられたが、寛永九年義智のとき五千石を幕府に返上、以後大森に陣屋を構えた。
(ハ)尻無村
 蒲生郡のうち、江戸期を通じて旗本寄合出羽最上氏領974石余。
(ニ)稲垂村
 蒲生郡のうち、元和八年旗本最上義俊の所領となり、以後、江戸期を通じて旗本最上氏領、高帳では291石余。
(ホ)石原村
 蒲生郡のうち、天正十二年より中村式部少輔領、豊臣秀次領、長束正家領、幕府領を経て寛永八年十二月まで、旗本最上義智五千石の支配、高帳では511石余。
(へ)小御門村
 蒲生郡のうち、天正十二年より中村式部少輔領、豊臣秀次領、長束正家領、慶長五年幕府領、同十年掘田正信領、寛永十年再び幕府領、寛永十九年以降旗本最上氏領五千石のうちとなる、高帳278石余。
(卜)野口村
 天正十二年より中村式部少輔、次いで豊臣秀次領、文禄四年より長束正家領、慶長五年より幕府領、寛永八年十二月より現八日市市大森に陣屋を置いた、最上義智領五千石となる、高帳104石余。
(チ)池庄村
 愛知郡のうち、旗本最上氏領、高帳1,009石余。
(リ)市之瀬村
 甲賀郡のうち、慶長五年旗本最上氏領となり、幕末に至る、高帳161石余
(ヌ)新宮村
 甲賀郡のうち、上野村と一村の扱いをしている、高帳は403石で幕府領、大森藩領、美濃部氏領。

 以上、十ケ村の領主の変遷についての概略は、『角川日本地名大事典』より関係箇所のみを拾い、できるだけ形を変えずに述べてみたものである。これらから判断すると、十ケ村すべて最上家に関わってはいるが、近江にて義光秣場五千石が在ったとしても、この十ケ村五千石をそのまゝ当てはめることは難しい。しかし、この十ケ村五千石が、義俊の近江領分五千石であり、旗本最上氏へと受け継がれていったものと考えよう。
(リ)の市之瀬村について、『土山町史』(昭36年刊)に次ぎのような記事がある。
  
 家康は豊臣氏の旧例にならって、京都に近い近江国を遠国大名の在京用途地として与えたために、他国の大名で近江国内に領地を有した者が多く、その数は二十数藩に及んでいる。関ケ原合戦の際、水口で破れた長束正家は領地を徳川方に没収され、直轄地に編入された。松下孫十郎が代官として瀬音・大野・黒川を除いた全土山を管治した。瀬音の残り(旧市ノ瀬村)は、同じく麾下の士最上源五郎の管治するところとなった。源五郎は名を義光といい、兼頼より十七世の孫に当たる。初め家康に仕え戦功あり、その功により出羽国数郡を領したが、近江国では蒲生・愛知・甲賀の三郡に五千石を有した。

 これを読むと、この記事の執筆者が、義光と義俊に共通する源五郎の名から、果たして二人を厳密に区別しての記述なのか、混同してのものなのか判らないが、慶長五年の関ケ原戦以後に与えられたとすれば、義光の在京賄料としての性格が強く感ぜられる。
 『近江蒲生郡志』(大正11年刊)は、「(大森陣屋最上氏)は近江国蒲生・愛知・甲賀三郡及び三河国に於いて壱万石の地を与えられる。時に元和八年八月なり。之れ最上家と本郡関係の創始なり」と、蒲生三郡と最上家との接点について述べている。
■執筆:小野末三

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[注]
1、[寛永元年大名禄高] (内閣文庫所蔵)
 奥書きに、明治十四年八月十五日華族徳川昭武蔵書ヲ写ス、とあり、当時の大名家を地域別に、東国、東山、北国、四国中国、九州衆に区分して記載している。最上源五郎は次のように見えている。

          東 山
  一 壱万石   三河近郷二而    最上源五郎


2、『山形の歴史』 (川崎浩良)

3、[上杉家文書] (『大日本古文書』)
 「為在京賄料、於江州蒲生野州高嶋三郡内、壱万石事、被宛行之訖、全可有領知之状如件」との、秀吉からの景勝宛ての判物がある。

4、新見吉治[近江における仙台領雑考] (『徳川林政史研究所研究紀要』昭42年度)
 『徳川家康文書の研究・下巻之1』 (中村孝也)
 慶長六年、片倉景綱に与えられた「知行宛行状」から、この五千石はもと秀吉より与えられた地であるが、「未だ果さ」れなかったので、改めて家康から与えられたものだという。また「中目文書」によれば、秀吉から天正十七年に下賜されたともいっている。
 また、天正十八年七月の秀吉による奥州仕置により、岩城・戸沢・南部の諸氏に与えた領地朱印状の文言の中にも「在京之賄」云々とでている。

5、『近江蒲生郡志』 (蒲生郡役所・大正11年)

2010/03/14 17:13 (C) 最上義光歴史館
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