最上義光歴史館/山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【一 義俊遺領を継ぐ】(2)
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山形藩主・最上源五郎義俊の生涯 【一 義俊遺領を継ぐ】(2)
山形藩主・最上源五郎義俊の生涯
【一 義俊遺領を継ぐ】(2)
元和四年(1618)二月九日、寒松の記録[]年首到来覚帳に、義俊よりの進物として「小袖弐領 綾ハフタへ」があったことを記している。この覚帳は四ケ年分しか見ることはできないが、[日暦]にも断片的に進物の記録があり、寒松からはその年の運勢を見る年筮の進呈とを併せ、義俊の寒松への儀礼的な付き合いは、最上家大破以後もしばらくは続いていったのである。
同年某月、寒松は義光弟の楯岡甲斐守光直の求めに応じ、達磨像に「碧眼遠来東 渡江冷坐嵩 万人何得敵 面壁一 張弓」と詩文を書き入れた。この詩文の前後の配列から察して、一月末から二月にかけての時期かと思われる。この際、寒松は「最上甲斐守求之」と、本姓を使用していることから、この時期の甲斐守は、末だ楯岡姓を名乗っていなかったのではと、別な意味での疑問を投げかけている。また 同五年六月には、「題屏風画四首 最上源五郎家人鮭庭越前守求之」と、重臣の鮭延越前守秀綱の求めに応じて、屏風画に四首の詩文を書き入れている。
このようにして、最上の重臣達も寒松の面識を得ていたことが判る。そして、義俊襲封の早い時期に於いては、江戸の藩邸で義俊を補佐しながら、藩の運営にあたっていた重役は、いずれも反義俊の立場を示した、この二人であったものと考えられる。
同年九月、少年藩主への交代に伴う監察目的と思われる、幕府検使榊原左衛門が山形に派遣された。秋田藩士梅津政景の九月十二日付の日記に、「最上より日野備中書状参候、様子ハ、最上為御検便、榊原左衛門殿御下之由」[注1]と記している。藩主義俊としての初の山形入りは、おそらくこの時期ではなかったろうか。またこの時の幕府検使の山形派遣についての記録は、今のところ政景日記以外には見えていない。最上家騒動の調停に公の手が入ったのは、二年後のことである。この時期の検使派遣は、あくまで藩主交代による藩内監察を目的としたものと、解釈すべきであろう。
翌五年三月九日付の細川忠興書状によれば、「東奥之衆正宗をハシめいつれも頓ニ被上之由候、此衆路次迄も罷出候ハ、西国衆暇出可申と推量候」[注2]として、東国大名達もやがて出府してくるだろう。そうすれば西国大名達も帰国できるだろうと、この時期の東国大名達の在国を報じている。
同五年二月二十八日、秋田藩主佐竹義宣は参府への途中、天童にて義俊より贈物を受けている。
山方より源五郎様、浅場(羽)下総と申仁、御使者ニ被遣候、御音信物太(大)樽五つ・鳫五つ・しめ鮑弐百人桶壱つ・米弐十表(俵)・大豆拾表被遣候、米・大豆をハ御返被成候、
ある藩主が出府の途中、他藩の城下を通過の際に、藩主が帰国中ならば互いに品々を贈り合うのが儀礼のひとつであったようで、翌二十九日の日記には、その様子をつぶさに伝えている。また昨年九月に山形に入った検使役人が、未だ山形に居たことも判る。
二月廿九日、てん堂(天童)より川崎まて御出被成候、福原彦大夫、最上源五郎様へ為御使者、てんとう(天童)より被参候、御太刀・御馬比内糟毛被進候、日野備中所へ鍋倉鹿毛被遣候、拙者ハ榊原左衛門殿・牟礼郷右衛門殿へ為御使者参候、 (中略) 源五郎様御両人之御検使衆も、長町ノはつれ迄御迎ニ御出被成候、源五郎様より御使者として、日野備中被参候、御太刀馬代銀子弐拾牧(枚)被遣候、備中為音信蝋燭百挺差上被申候、[注3]
佐竹義宣の江戸入りは三月六日、そして伊達政宗も仙台を発したのが三月十八日で、上杉景勝も九日には米沢を離れている。このように山形近辺の各藩主も、相次いで出府しているので、義俊も相前後して山形を離れたものと考えられる。
この幕府検使衆と共に、領内査察の日々を過ごしていたであろう新領主と、そして検使自身が半年に渡る滞在中に、最上の内情をどの程度調べ上げたであろうか。一年後の家中騒動の調停を目的とした目付派遣が、その伏線は既にこの時期にあったのではなかろうか。
同年五月八日、義俊は将軍秀忠の上洛に際しては、江戸留守居を命ぜられているので、四月中までには江戸へ入っていたであろう。そして、まもなく起きた広島藩主福島正則改易事件に於ける、鎮圧勢の一員として参加したことは、義俊の藩主として初めての軍役であった。
五月八日御上洛御首途ありて、神奈川に迫らせらる、本城は国松君、西城は若君をとどめ守らせ給ふ、鳥居左京亮忠政・内藤左馬助政長・酒井宮内大輔忠勝・松平下野守忠郷・松平式部大輔忠次・最上源五郎義俊・福島左衛門大夫正則等留守す、[注4]
この正則の改易事件の直接の原因を、上意を得ずして広島城普請を行ったものとされてはいるが、その根はもっと深いところにあったのであろう。幕府の正則に対しての詮索は、すでに四月中から始まっており、正則は江戸に留め置かれ審議が続けられていた。そして六月二日には正則改易の沙汰が下った。在京中の秀忠の許に在った久世広宣・坂部広勝は、正則が異議を申したてるならば珠すべしとの命を帯び、江戸へ向かった。坂部氏の『寛政譜』に義俊の名が見えている。
福嶋左衛門大夫正則罪ありて国除かるるのとき、広勝、久世広宣とともに御前にめされ、汝等いそき江戸におもむき、正則もし異議に及ハゝ松平下野守忠郷、松平式部大輔忠次、鳥居左京亮忠政、最上源五郎義俊等の兵を下知し、これを誅すへきむね仰をかうむり、御手つから御謀略の書二通を授けらる、
また[最上家譜]も、義俊の働きを次のように伝えている。
元和五未福島左衛門大夫御改易之節、家人共異心ヲ含候由流布二付、源五郎ヲ被召、彼屋敷江馳向可請取、若家人等及異議候者、不残討捕可申旨被仰付、御城ヨリ直二福島屋敷江馳参請取、為御褒美長光御刀ヲ賜、
また[武功雑記][注5]は「(正則が)江戸ノ内二福嶋屋敷三ヶ所アル内、福嶋イヅレノ屋敷二被居候事シレズ、シカレハ、今度御上洛二付而、御留守二被召置候、人数三万ヲ一万ツヅノ手当ナリ」といい、それを受けて[常山紀談][注6]は、「正則ノ邸ノ門前二蒲生下野守忠郷、裏門へハ鳥居左京亮打向ヒ、皆士卒物具シタリケリ、芝へハ最上源五郎義俊打向ヘリ」として、義俊が芝屋敷に打向ったことを伝えている。
この事件の山形藩出兵に際しては、若き藩主を支え藩の指揮に当たったのは、鮭延越前守秀綱ではなかったか。先の寒松の記録から、この年の六月には在府していたことが判っており、また『続々本邦史記』[注7]から、この事件に関わる記事の中にも、越前を最上家の責任者として取り上げている。更に正則が信濃に配流されるまでの間、最上家が正則の身柄を預かっていたのではという、次のような記事もある。
去程二両上使より正則墨付請取しさるによって、家士中合て城明渡さすの旨先宿頭を以執城中まて意を訴におよひ、再三に及ひ早打を下し、家来共の決定斯のことく注進ありしかハ、各訴への上ニて正則家来とも方えの直判墨付早速さし出すへきの旨、最上家へ御連判を以徒遺されしかハ、正則御預りの節より最上家ニおゐて鮭延越前守正則一件の支配たりしゆへ、正則にむかひて江戸表より厳命の趣申渡し、云々
この記事は、家中の籠城の気配に包まれた広島城の状況を、急遽江戸表に知らせ、その善後策に走っている様子の一端を述べているものである。越前が最上家の指揮をとっていたことは、この記事から伺い知ることができるが、果たして正則の身柄を最上家内に拘束していたのであろうか。しかし、他にこれを裏付ける確たる史料を見つけ出すことはできない。ただ、正則預かりの経緯について、次のような最上家に関わる記事が書き残されていることから、単に屋敷接収に兵を動かしただけではなく、それ以外にも正則との間に、何らかの関わりがあったのではなかろか。
[内史畧][注8]より、正則改易事件についての記事の中に、「出羽山形最上氏御預にて長命にて終わる」としている。
[元寛日記][注9]の元和五年の条に、「上使御請之旨言上ス、於是可被馳羽州庄内賜四万石由、重テ有上使申シテ云、為流人ノ身四万石無其用上返ス、仍於配所賜一万石最上源五郎義俊預之守護ス」とある。
■執筆:小野末三 (H)
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[注]
1、[梅津政景日記](『大日本古記録』)
2、[細川家史料](『大日本古記録』)
3、[注1]に同じ
4、『台徳院殿御実紀・巻50』
5、『大日本史料・12編30』
6、[注5]に同じ
7、『内閣文庫所蔵文書』
原本は不明だが、写本は色々と形を変え各所に見られる。史料として信用度に疑問もあるが、最上家に関わる記述の多さには、目を見張るものがある。
8、『岩手史叢・1』 昭48年
9、『内閣文庫所蔵史藉叢刊』
2009/02/15 12:46 (C)
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